ギ リ シ ャ の 山 旅

 

記:吉永英明

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オリンポス山ミティカス・ピーク

 JACの同好会のひとつである山想倶楽部の山 行で、総会終了後の 6 月 25 日~7 月 4 日の間ギリ シャを旅し、ギリシャ本土中部のオリンポス山 (2912 メートル)と地中海東端のクレタ島イデ山 (2456 メートル)に登ってきた。

 山想倶楽部では、毎年夏、海外の山行を実施し ている。2012 年のアメリカ・カリフォルニアのヨ セミテ(ハーフドームの登攀)、2014 年のアメリ カ・ユタのブライスキャニオンに続く海外山行で あった。私にとっては、今般、20 年間に亘るJA C運営の手伝いから解放されたため、自分に対す る慰労の積りで参加した。

 旅行期間中、ギリシャ危機といわれるユーロ圏 での経済危機が重なり混乱が心配されたが、我々 旅行者は何の不都合もなかった。元々、信用度の 低い“ドラクマ”というギリシャ固有の使ってい たものが、信用度が格段と高いユーロ圏に加入し、 低利での外債による資金調達が容易となったため、 ジャンジャン借金をしてしまったもので、これを 生産投資に振り向けず、年金の充実とか、オリン ピック開催の際の施設費に費消し、一時はデフォ ルト宣言寸前まで陥ってしまったという訳である。 幸い、ドイツをはじめとするユーロ圏主要国の援 助で何とか正常化が見え始めてきた。アテネ市内 ではチプラス首相提案の国民投票直前であったが、 人々には切羽詰った様子は全くなかった。唯、銀 行はシャッターを下し、ATMの前に年金生活者 が現金を得るべく列をなして待つ姿がみられ、国 の財政が破綻するのはこういうことかと思った。

 さて、アルプスより東のヨーロッパ中部の第 2 の高峰オリンポス山の登山は、アテネから高速道 路を北上して山麗のまちに一泊、標高 2100 メー トル程のアガピトス・ロッジに 2 泊してスコーピ ア(2912 メートル)に登頂し、隣のミティカス・ ピーク(2917 メートル)で岩登りのまねごとをし た。天候は夕刻に雨模様になる程度で順調、2300 メートル付近のマツの森林限界より上はガラ場が 広がる大きな斜面を登るというルートで、日本で の山登りと大差はない。所々、残雪がみられ、野 生の山羊のような動物を遠望することが出来た。

 ミティカス・ピークは、5 名の希望者を 2 組に 分け、地元の若いお兄ちゃんガイドの先導でハー ネスを装着して取付いたものの、1 名が経験少な く時間がかかりすぎるため、中途で登攀を中止し た。ルート自体は前夜の雨で途中のガリーが濡れ ていたが、岩は硬く、少々の経験があれば十分登 れると思われた。スコーピア、ミティカスの北面 は高度差 500 メートル以上の大岩壁が連なってお り、穂高の滝谷といったスケールではなかった。 中腹のロッジは、ヨーロッパ各地からの登山者で にぎわっていた。ビール、ワイン等の飲食、チー ズ類のおつまみの値段は安く、酒好きの同行者は ずいぶん酔っていた。

 オリンポス登山の後は、北部のギリシャ第二の 都市テツサロキニに車で移動し、ここから空路ク レタ島に飛んだ。移動中気がついたが、アテネと テツサロキニを結ぶ国道 1 号線ともいうべき高速 道路の走行車両が少なく、特にトラックの少なさ が目立った。やはり、国家経済の停滞が物流まで 影響を及ぼしているのであろう。テツサロキニ空 港では、雷雨に見舞われて出発が遅れ、おかげで クレタ島イラクリオン空港到着が夜 10 時すぎ、ここからクレタ島山間部まで 2 時間、イデ山登山の 基地となるアクソスについたのは夜 12 時を過ぎ ていた。

 翌日は好天に恵まれ、イデ山登山口へ車で行き、 約 4 時間ほどの登りで全員無事ゼウスの神の生ま れたという山頂を極めることが出来た。中腹は山 羊、羊が放牧されたゆったりとした山容で、所々 残雪がみられ、北アルプスの太郎平から北ノ俣岳 への稜線を歩いているようで、出会った登山者は ドイツ西部から来たというドイツ人 3 人のみ、静 かな山登りが出来た。

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イデ山  

 アテネではアクロポリスの丘のパルテノン神殿、 第 1 回オリンピック開催時の競技場等を見学し、 クレタ島ではクノッソス宮殿跡を見学した。何し ろ紀元前 3000 年位から始まる話である。私も最 近山想倶楽部の人達と山の辺の道、葛城古道とい った奈良の山里を歩いているが、せいぜい150 0年前位の天皇の勢力圏がその辺の村長さんクラ スであったろう時代からしか頭にないためピンと こなかった。

 日本からアテネへの直行便がないため、往路は パリ経由、復路はアムステルダム経由を利用した。 帰路、アムステルダム空港で“吉永監督”という 呼び声がしたので振り向いてみれば、何と山岳部 の後輩(彼は1996年のJAC K2登山隊に参加) がいるではないか。どうしてここにいるかと聞く と生意気にも国際学会の帰りという(彼は独法“環 境技術研究所”研究員)。後で気がついたことだが、 私の荷物にそーっとオランダ土産を忍ばせてくれ ていた。