新潟県境の大地図を数多く創り上げた『藤島 玄』とは  

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 藤島玄氏は、戦後における新潟県の山岳会活動において重鎮的な存在であり、その功績は、苗場山を全国に紹介した山の先覚者である大平晟、日本山岳会創設者の一人である高頭仁兵衛氏に次ぐものです。 戦後間もない1946年(昭和21年)関西旅行の帰途、戦災で焼け野原の東京に立ち寄り天幕のJAC仮事務所を来訪し支部結成を決め、その年の12月5日高頭仁兵衛翁宅にて発起人会を開き越後支部を創設し、関西支部に続き第2番目の支部結成となりました。

 新潟の祝町の長男として明治37年(1905)に誕生し、源太郎と名ずけられました。

藤島氏の登山原点は、12歳6年生の時、父源蔵保有の帆船から残雪の山々を見て、「新潟から見える山々のすべてを登り尽くす念願を立てた」時からであると言っていました。そして、見える下越の山々を登り、34歳になって「山ノ下砂丘からの望見山岳展開図」を完成させています。

藤島氏は、15歳で新潟尋常高等小学校を卒業し、新潟鉄工所に入社。その年五頭山登山の記録を残しています。21歳で「北越登行会」を結成し、23歳の3月に結婚し6月に日本山岳会に入会(会員番号1033)しています。

                

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24歳で「越後山岳会」を創立。32歳で新潟鉄工所に「登山とスキー部」を創立。

34歳「日光寺スキー倶楽部」を創立。42歳「日本山岳会越後支部」を結成し、山仲間と県下の山岳会をリードしてきました。

飯豊連峰との関わり合いは、12歳の時、大きく白く輝いていた飯豊を見てから10年後の21歳の時会津より飯豊山に登ったのを皮切りに、70歳で連続50年記念登山をし、74歳で飯豊連峰全縦走を成し遂げ、この間121回の飯豊連峰入山記録を残しています。

 

藤島氏の執筆活動は、日本山岳会入会の翌年から会報の「山岳」等に投稿を始め、「登山とスキー部」の部報に多くの山行記録を投稿しています。

 

 

 

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越後支部を立ち上げると同時に「越後山岳」を編集・発行を手掛け、45歳で新潟鉄工所を退職し、以降「著述業」に専念し、山岳地域の地誌、民族関係、加えて克明な地図を盛り込んだ「越後の山旅」の上・中・下越版を発行し、また、「磐梯朝日国立公園 飯豊連峰大地図」は飯豊連峰開拓に傾けた気概のあらわれであり、2000メートル以下で氷や岩の領域には程遠いものと断わって、経験を著した「冬山の覚書」は当時の山岳関係者には、バイブル的な存在であり、いまでも大いなる山岳参考書となっています。    遠藤 家之進正和

      

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