山想倶楽部

■ 2015.12.12

紅葉の京都・愛宕山と名称散策

嵯峨野路の紅葉山行  

石岡慎介・記

 

木々の錦秋に目と心を奪われる季節がまた巡ってきた。紅葉と清流が織りなす秋麗を迎えると、人はどんなに時代が変わっても、とりこになるようだ。

 

“山の錦は、まだしう侍りけり.野べの色こそ、盛りに侍りけり“(源氏物語)

 

時折山茶花つゆの気配もあったが、京の都では、汗ばむような紅葉狩りである。市内は国際色豊かな雑踏にもまれた嵯峨野路であるが、一旦お山に入れば、山想人にとって、たっぷり静かな秋興に浸る世界が待っていた。

知立と京都在住会員のお蔭で、古都の文化、修験の里山を存分に楽しんだ⒉泊3日である。企画者の縁の下の力持ちにはまずもって感謝一杯である。

 

入念に準備された企画の足取りは次の通りである:

 

11月19日 東京発8:03=京都着10:47=嵯峨嵐山着集合11:39…≪小倉山登山・嵯峨野散策≫…ペンションマインドゲーム泊

11月20日 ペンション発…≪愛宕山上山≫…嵯峨水尾…柚子の里割烹『直八』宴会…保津駅=嵯峨嵐山…コミュニティー嵯峨野泊

11月21日 ホテル発…トロッコ嵯峨駅=《嵯峨野鉄道》=トロッコ亀岡駅=バス移動=保津川乗船場~《川下り》~嵐山昼食―嵯峨嵐山駅=バス移動=京都駅解散

 

渡月橋を渡って保津川ぞいの出口のほうに「東海自然歩道」を進む。嵐山公園をしばし散策すると、万葉集と古今集の立て札がそこここにあり王朝文化の華をPRしている。前者は「ますらおぶり」、後者は「たおやめぶり」を詠っている指摘は“そうだったかな“の心象である。

 

“山川に風のかけたるしがらみは流れもめげぬ紅葉なりけり”

の秋興詠に気づいたが、何と紅葉黄落を「しがらみ」と述べるが、川の流れを堰き止める形容となっている。

 

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小倉山から見る保津川

さて最初の登高目標としている標高293㍍の「嵯峨小倉山」は嵐山の対岸に位置し、里山ハイク向きである。平安貴族から現代人にも脈々と伝わり愛し続けられる紅葉狩りの感性舞台なのであろう。“ご当地へ天皇様が清遊されるまで、紅葉葉に心があれば散らないでほしい”とまで純朴な心根を詠う小倉百人一首を知らない岳徒はいないだろう。

“小倉山峰のもみじ葉こころあらばいまひとたびの御幸またなむ”

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嵯峨の風景

 

 

嵯峨野には,剣劇俳優大河内伝次郎の山荘とか政商角倉了以の木造があるとか聞く。嵯峨野庶民の慈母とか呼ばれた勤王志士の母「村岡局」の胸像だけは拝顔した。読めない漢字で「盗らないでください」とサインもあり、何事と思いきや、川中にはホタルの餌になるカワニナが生息していると誰かが教えてくれた。

 

ソヨゴの赤い実が照り映えて美しい見晴らし台で小休止。京都岳人の景観説明を受ける。桂川にかかる渡月橋を見下ろし、南東に大文字山、比叡山、さらに京都産業の雄京セラのビルも一望できた。淀川として大合流する桂川、保津川の河川治水など堰堤歴史を専門岳徒にも学ぶ。帰郷後少し復習したが、17世紀になって嵐山の豪商角倉了以が取り組んだ水路土木開発、明治に入ってお雇い外人デレーゲによるオランダ堰堤事業の話を初めて山上で傾聴した。

2時15分頃頂上に出たが、リョウブやヤマモモの林である。リョウブの表皮は殆ど鹿の食害痕があった。早々に退散すると結構大木が伐採されている。

よく見ると「カシノナガキクイムシ」にやられたコナラの燻蒸除去の現場であった。京都森林組合による自然保護活動は大変そうである。山道は砂岩、泥岩なのか崩れやすい古生層土壌のようで道普請のご苦労が偲ばれた。

 

下山してまた一般観光客の中にまぎれ込む。名高い≪竹林の小径≫に入る。

膨大な労力をかけたと思われる竹林管理は圧巻で、古竹は全くという程伐採し、100%近い青竹林は壮観としか喩えようもない景観である。京都岳人の配慮で、縁結びの神、源氏物語の野宮神社、平家物語の祇王寺,わび住まいの寂光院,二尊院,檀倫寺、去来の落柿舎など歩き回ったが、門構え拝観だけの時間/経費の節約指向があまりに強かった。昔から山採り赤紅葉は好んで寺社庭園に移植されているはずなので、中に入れば紅葉女神“龍田姫”は一段と艶やかだったろう。

その昔、京の中心街が華やかな『洛内』とすれば、嵯峨野一帯は静かな、どこか寂しさの漂いが感じられたが、この田園郊外は『洛外』となるのだろうか。

印象深かったのは、“神は父、仏は母”の神仏習合が全盛だった王朝信仰の証なのか、第52代嵯峨天皇の檀倫皇后さまゆかりの「檀倫寺」である。仏教への信仰が篤く、日本最初の禅院を創建されたという説明があった。調べ付け加えるなら皇后ご本名嘉知子さまは藤原摂関家に対抗した没落橘家の美貌救世主だったようで、記憶されてもよい方だろう。“美しき者,高貴な者も世は無常”と申されたとか、人は誰でも己の時を迎えるが、ここでは記述できない程の烈女の死に様が杉本苑子小説の題材にもなっていた。

それはさて置き、毎夜お通された嵯峨天皇への御歌が残っている。

 

《 メッチャ噂になっていますから チョットの間外で待っててください

その間についた夜露は後で私がキレイにしてさしあげますよって・・・・・ 》

 

と帰郷後だが、迷訳相聞歌に気づいた。一方この天皇さまは高野山をこよなく愛した空海との相思敬愛で知られ、壮大な寺社仏閣の建立につながる名君であったようだ。

 

 山行二日目は、京都西北に聳える標高924㍍の岩盤のような愛宕山を目指す。

 

≪お伊勢へ七旅、熊野へ三旅、愛宕さんへは月参り≫

という古歌がある。7時には出発し、12時半には休憩処「柚子の里」に下りてきたが、上り降り5時間ほどかかった本格的な山歩きであった。22000歩くらいだったか。

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愛宕山山頂付近

愛宕山は、全国900余の御分社の総本宮で1300年前役小角によって山嶺が開かれ、火伏の神,戦勝の神、王城鎮護の神を祀る信仰の山となっている。愛宕とはどんな由来の言葉か神官と語り合う。記紀神話によれば、カグツチノミコトはイザナミノミコトとイザナギノミコトの間に生まれた最後の息子だが、母親のイザナギを火災で死に追いやったことから父神に殺される仇子転じて=阿多古、愛宕と呼ばれるようになり火防の神、火山噴火の神の総称となったという。そういえば鎮火、防火を司る神は、愛宕神社では、“火廼要慎”と書き”火の用心”と唱える拍子木風習もあり少し肯ける。カチカチ山の火打石ではないが、京都は嵯峨石、愛宕石、清滝石、鴨川石など硯原石,研ぎ石が山中に産するらしい。

 

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愛宕神社

頂上には2000回とか3000回とか頑張り登頂する現代山愛好家の記録も披瀝されていた。東の比叡山(848㍍)が火の山であれば、愛宕が火伏の山だと申されたのは月輪寺の女官であった。大正14年の石塔があり、“つらくとも、こらえて登れ皆の衆!!と彫られていた。古寺守って母娘三代とか女官殿は、「昔は人の命にやさしかったが、今の下界は自分本位で自分の欲望、栄華のみ求めている」と慨嘆されていた。開いた口元から南無阿弥陀仏の六仏を吐き出している空也上人の彫像も所蔵しているというが、空也追っかけの白洲正子女史が愛したお寺だとも気づいた。登山者とは言わず、”上山者”の皆さんへという呼びかけ標識もあったが、祈り願いの山らしい。永代常夜灯には江戸時代の寛永,宝永、元禄、明和などと彫られていたが、寄進者の京の都人にとっては、戦乱大火が多かった歴史に思いをいたし,防火の願掛けだったのだろうか。全燈籠に火をともす『愛宕火』は風物誌となっているようだ。

 

火伏の神花『樒』の花売り里女の写真紹介も見た。上山者には〝おのぼりやす”下山者には“おくだりやす”の京挨拶は昔日の美しき日本なのだろうが、柚子 真っ盛りの里におりてくると、風情豊かな割烹で温かい歓迎が待っていた。柚子風呂と豪華な地鶏鍋に地酒と大いに舌鼓を打った。

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柚の里   水炊き料理

 

“山里の 湯に熟れ重し 柚子の肌”(石 讃岳)

その夜部屋で疲れを癒していたら、北の海理事長の帰天が突然報ぜられ、その昔、憎たらしいほど強かった大横綱にお悔やみとなった。行年62歳だった。

 

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トロッコ列車

いよいよ最終日。山歩きから解放され、物見遊散の日である。 

9時過ぎにトロッコ電車に乗る。眼下に保津峡を見下ろしながら、嵯峨→亀岡間全長7キロ、30分ほど山嶺谷合を一周する。鬼面車掌がタイ女性たちにフォトサービスしながら「日中友好!」と声張り上げてはみたが、そうとは知らない彼女らキャーキャー嬌声をあげていた。久しぶりの都上りだが、時を経て、この国らしい文化の壁を越え、世界の絆として受け容れられる新開国がはじまったようである。兎にも角にも仰天の異人ラッシュである。

 

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保津川下り

 

バスに乗り継ぎ今度は川下りである。両岸にはカルガモや烏が羽を休める中、30人ほど搭載の遊覧船は3人の船頭さんによって力一杯にあやつられる。16キロ程の川下りは緩流と急流を繰り返し2時間弱の行程だが、愛宕山が進行方向に聳えたり、後方に回り込んだり、河川工学岳人によれば、山間の穿流蛇行による地形上の秘跡のなせる技とのことだった。

奇岩には清和天皇の鵜飼いの場とか、屏風岩、いのしし岩,かえる岩などたくさん表示があるが、この地域特産の北山杉が40年ほどの樹齢だろうか、次世代へ向け青々としていた。地図上では第56代清和源氏の棟梁となられた天皇山陵が水尾保津川沿いにあるようだ。この川下りの歴史は古く、400年前、政商角倉了以が丹波の木材、薪炭を京の都へ運ぶ産業水路として切り拓いたという。今となっては観光産業が地元経済をどれほどか潤しているか初見参であった。

巧みな竿さばきに身をまかせ、時に激流の飛沫を浴びながらスリル満点である。仲間の能弁娘と船頭との語らいが他の乗船客の笑いを呼んでいたが、一句献上したくなった。

 

“天高し 遊びをせんとや、生まれけむ”(石 讃岳)

 

11時半下船し山行と遊覧の旅は幕となった。

 

こうして、平成27年四季折々の山人生も終盤を迎えてきたが、人はあるがままの大自然の息遣いにどれほど支えられていることか、1300年前からの雅の京文化がこの日、この空、この山仲間たちの中で、どれ程深く生きづいているか悟る山旅であった。

“ほどほどに 老いて紅葉の 山歩き” (能村登四郎)

 

参加者:世話人・武田+酒井、武田、西谷夫妻、廣島、日出平、醍醐、石原、石岡