お知らせ山想倶楽部

■ 2016.11.20

山想倶楽部 湖北の歴史を巡る秋の山旅

 

西谷可江・記

期 日:2016年11月6日(日)~8日(火)

参加者:石原達夫、高橋聰、下河辺史郎、菊池武明、吉永英明、廣島孝子、武田鞆子、

日出平洋太郎、横田昭夫、川村光子、西谷隆亘、西谷可江

11月6日(日)賤ヶ岳登山(標高421m)

 

東京発の新幹線で岐阜羽島駅に10時28分に到着した10名は、既着の岐阜近在の横田さん、武田さんと合流した。駅前の楓紅葉には、晴れ渡った秋の陽がふりそそぎ、些かの冷風が心地よい。

先ず、今回の山旅を企画し、案内をしてくださる横田さんからスケジュール変更が伝えられる。8日の天気予報が芳しくないため、好天の6日と7日に登山を済ませ、8日は見学ということになった。

駅近くで15人乗りのレンタカーを借り、高橋さんの名運転、横田さんの名ナビゲートのもと、本日の目当ての「賤ヶ岳合戦場」に向け名神高速道を進む。途中、ランチタイムをとった養老S.Aを11時40分スタート。右手に少しばかり色づいた伊吹山が見えてくる。  

北陸道の木之本インターチェンジから余呉湖に向かう。前方の山並みはうっすらと黄葉し、車道に沿って穂芒、コスモスの残花が風に揺れている。冬は雪が深いのであろう、道路脇には雪掻き車がずらりと並び、積雪量を測るポールが設置されている。J.R北陸本線に沿って進むと、程なく余呉湖に到着。「ワカサギ釣り」の看板のある湖傍に駐車して身支度を整え、12時30分、風の遊歩道を行くと5分ほどで「岩崎山入り口」の標識のある登山口に着く。

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ここから、いよいよ「賤ヶ岳」登山である。賤ヶ岳合戦場は、織田信長の後継者を決める羽柴秀吉と柴田勝家との天下分け目の決戦が繰り広げられたところである。

朴と杉に囲まれたうす暗い登り口から、いきなりの急登である。マムシグサの熟れた赤い実にはっとし、思わず、決戦で武将の流した血潮の色を連想した。風音を聞きながら、山栗の空毬が散らばる落ち葉道を登ると、「遊歩百選」の標識がある。いつもは、このルートからの登山者も多いのであろうか。今日は、わがグループばかりである。スタートから20分ほどで林道に出る。平らな道のなんと気楽なことか。木漏れ日の中を、汗ばんだ肌に風が心地よい。

「余呉八景」の石碑を見て更に行けば、中川清秀の墓に出あう。清秀は、織田信長に仕え、本能寺の変で信長が明智光秀に倒されると、秀吉とともに光秀を討った武将である。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家軍の勇将、佐久間盛政の猛攻にあって戦死。墓には「浄光院殿行誉荘岳居士」の法名が刻まれている。お墓の門扉のデザインに十字架が(私がそのように思ったのだが)あしらわれていたが、キリシタン大名の高山右近が清秀の従兄弟ということで、清秀とキリシタンの関係は如何にと、興味を覚えた。その先には、地元の住民が清秀の首を洗ったという「首洗いの池」の標識がある。杉に覆われて日の差さない風の山道は寒い。

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秀吉方の若き武将7人の名前を染め抜いた旗の前

2時10分、ぱっと日の差す頂上へ到着。眼下には余呉湖、湖に続く田園の広がり、家並、その向こうに連なるなだらかな山々。目を転じると、琵琶湖が見えるが、空と湖の境界は、模糊として定かでなく、手前に続く湖岸の向こうに広がる湖の姿をはっきりと捉えることはできなかった。目の前に、お椀を伏せたように竹生島が見える。頂上からの360度の眺望は圧巻である。「遊歩百選」「余呉八景」の標識どおりと頷けた。木ノ本からのケーブル便もあり、元気な子供の声もして、30~40名ばかりの登山者で賑わっていた。槍に見立てたのか縦長の標識があり、「七本槍古戦場賤ヶ岳」と彫られていた。大きな合戦図があり、その前でガイドの方が説明をしていた。崖際には、合戦の秀吉方の若き武将7人の名前(後世、賤ヶ岳の七本槍と呼ばれた、片桐且元・福島正則・脇坂安治・糟屋武則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰)を染め抜いた旗が7本、風にはためいていた。その向こうには、うす黄葉の伊吹山が見える。

往時を偲びながら暫し展望を満喫して、14時20分、下山となった。暗くて寒い山道を30分ほど歩いて国民宿舎余呉湖荘までのルートを下った。余呉湖には、寄せる波音の中を鴨の群れが日を浴びて泳いでいる。余呉湖に沿って「琵琶湖国定公園」の標識のある草紅葉の中を歩く。叢から虫の声。この辺りはサワオグルマの群生地であるとか。「尾野呂浜」の標識に「合戦の火ぶたが切られたところ」とあり、山口誓子の「秋晴れに湖の自噴を想ひみる」の歌碑があった。30分歩いて、駐車場に15時30分着。

満ち足りた心持で今夜の宿(明日も連泊)「己髙(ここう)(あん)」に着いたのは、日没にはまだ間のある16時過ぎであった。宿名物の「薬草湯」でひと日の疲れを癒し、楽しい夕食、和やかな歓談に「ロマンの山旅]第一日目の夜は更けた。

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己高山(こだかみやま)にて

11月7日(月)()高山(だかみやま)登山(標高922.6m)

 

予報通り、今日も朝から秋晴れの登山日和で、ほっとする。7時に朝食を済ませ、所用のため帰られる吉永さんに見送られて8時5分、高橋さんの運転で宿を出発する。宿近くの畑には柚子がたわわに実り、コスモス、銀色に輝く穂芒と、晩秋の装いに彩られた里道をゆく。路傍の洒落た登山届用のポストに、今日もまた案内してくださる横田さんが安全登山を祈りながらであろう、登山計画書を投函してくださった。

8時13分、登山口到着(標高210m)。見上げる山の斜面は朝日が差して、紅葉がちらほら見える。アザミの残花やキク科の花が朝露にしっとりと濡れている。登山道は3コースあり、尾根コースを上る。初めからの急登で、「えらい容赦のない登りだねえ」とメンバーの呟きが聞こえる。両足を揃えてやっと立てるくらいの、湿った、細くて抉られた山道は、とても歩きにくい。必死で歩いていると、朝の冷気にも、じっとりと汗ばんでくる。3合目辺りに鉄塔があり、道はやや緩やかになり朝日がいっぱい差し込んでくる。展望が開け、薄靄に田園の広がりが見える。山道沿いの大木は根元から腐り、倒れるのも時間の問題と思われた。9時、4合目着。10分休憩。風が心地よい。足元に実生の小さな楓が真っ赤。しばらく行くと、真ん中のお釈迦さまとともに背に日差しを受けて、可愛い小さな六地蔵さまが並んでいる。9時23分、谷コースとの分岐に到る。「この山はぼくらの宝もの・高時小」と小学生の作った標識がある。地元の小学生は年に一度はこの山に登るそうだ。間もなく6合目には「馬止め」「牛留」の標識がある。ここは昔、坊の物資を運ぶための牛馬をとめたところであるという。「湖北の山で山麓から山頂付近までこれほど寺院跡が多い山は己髙山以外にないだろう」と、案内書にある。展望が開け、琵琶湖の竹生島が遠くに小さく見える。前山の紅葉が景観を一層引き立てている。「最高の景色と達成感をおみやげに・高時小」と、ここにも小学生の作った標識が立っている。秋の陽光を透かして橅の黄葉が碧空に映える。「今年は、橅の実成が少なかった」と横田さん。

なだらかに広がる鶏足寺跡に着く。今は廃寺になっているが、行基によって開基され、最澄が再興したといわれている。葉ばかりのクリンソウが茂っていて侘しさが募る。新緑の頃の、クリンソウの花に包まれた寺跡を想い描いてみる。またまた標識に出あう。「天ぺんのけしきを見たらえがおになるよ」。故郷の山を大切に思う子供たちの気持ちがじんと伝わって来る。

トラロープの張られた急坂を登ると頂上が見えてくる。10時43分、頂上着。さほど広くない頂上には、大岩があり祀られている。石原さん差し入れの大きな「九州一美味い本練羊羹」を、また横田(果樹園)さん差し入れの、みずみずしい林檎を御馳走になり、ほっと一息ついたところで記念写真を撮る。軽く昼食を済ませ、11時20分下山開始。

下りは、ずっと急坂が続く。ふと目を上げると、青々とした(ゆずりは)の赤い葉柄が鮮やかだ。二つ目の鉄塔を過ぎる。どこまでも急坂である。やっと緩やかな下りとなり、滝の水音や沢音を聞きながら、羊歯の茂み、苔むした倒木を見つつ下り着いたのは、12時50分であった。「春白谷」の標識が立っていた。高橋さんにセルフォーンで連絡し、迎えに来ていただく。

ここから、石田三成と羽柴秀吉の出遇いの地「法華寺三珠院」へ向かう。鶏足寺の別院で、現在は無住だが、僧坊102宇の大寺院であったという。長浜城主となった秀吉が鷹狩の帰途、立ち寄った寺で、まだ小姓であった三成(佐吉)に茶を所望したところ、なかなかの心遣いに感じ入り、三成を家来として召し抱えたという「三献の茶」の言い伝えで有名である。草生うる石段を上ると、「伊波太岐神社」があり、祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)とあった。

14時過ぎ、宿に帰着。時間はたっぷりあるので、ゆっくりと薬草湯、露天風呂で寛ぎ、歓談する。夕食は「近江牛のすき焼き」とあって、女性陣は殊の外、食欲旺盛であった。満足、満足で二日目もまた快く更け行く秋の夜となった。

 

 

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佐和山城跡碑にて

11月8日(火)()高閣(こうかく)世代閣(よしろかく)、佐和山城址、安土城考古博物館見学

 

天気予報通り、朝から曇り。午後から雨らしい。今回の山旅のメイン、賤ヶ岳と己高山登山を終えているので、雨が降ろうが、気持ちに余裕がある。7時半に朝食を済ませ、8時50分に宿を出発。2年前、山想倶楽部で「古戦場(関ヶ原)を巡る山旅」をした折も、この宿でお世話になったが、宿の目の前にある「己髙閣・世代閣」を訪れるのは初めてである。路傍には、6世紀末から7世紀初め頃の「古橋製鉄遺跡」がある。標識を見なければ、恐らく気づかずに通り過ぎたであろう。

案内の方から「己高閣」(滋賀県下で初めて国の補助を受けて建設された文化財収蔵庫・己髙山諸寺に祀られていた本尊十一面観音、七仏薬師など重要な仏像が安置されている)、「世代閣」(石器時代以降の文化財、戸岩寺の寺宝保存のため区民の浄財のみによって収蔵庫を建設・昔の村人たちは食うや食わずで仏像を守ってきた)など説明を聴く。牡丹、蓮、藤の花などが描かれた「お市の方寄贈の屏風」が静謐な室内に華やかさを添えていた。この村には石田三成の言い伝えがたくさんあるという。関ケ原の合戦の折には、村人は命がけで三成を守り、山中には三成を匿った岩窟跡もあるとか。その後、三成に関する物は、全て抹殺されたという。

昨日、己高山に登ったことを話すと、案内の方は、「昔の登山道で、いい下山路を歩きなさった。ただ、危険で、毎年一人や二人は遭難します。皆さんは健脚だから…」と仰ってくださったが、あの急坂がそうだったのかと感慨一入であった。昔は、お坊さまの通る山道は、地元の人々で整備をしたそうだ。鶏足寺跡にあったクリンソウは、「昔からのとても大事な宝物で、何とか保全している」とのことであった。

次いで、車で佐和山城址へ向かう。どんよりと曇った前方に、伊吹山が見えてくる。佐和山トンネルを抜け、湖岸道路からは彦根城が見える。10時50分頃、龍譚寺に到着。お寺の横からハイキングコースに入ると、すぐに、石田三成群霊供養塔があり、少し進むと石田三成の座像がある。いずれも三成フアンによって近年、建立されたとか。佐和山城は、かつて、一時期、三成の居城であった。その後、井伊氏が城主となったが、関ケ原の合戦後、落城し、彦根城築城時に廃城となったという。墓地脇の道を進むと「井伊直虎ゆかりの地」の幟旗が立っている。うっそうとした樹々の茂みの中の階段を上る。ヤブミョウガの実が黒く熟れ、真っ赤なフユイチゴがおいしそう。「ストックを持ってくればよかった。よいしょ!」の掛け声に、佐和山登山道の急坂を登る。腐った木の洞にオオスズメバチがいるらしく、先頭を行く武田さんが後ろに合図を送ってくださる。平坦な山頂(標高232.9m)に着く。三成が大改修を行い、五重の天守閣がそびえていたという。ここからの眺望は良く、うっそうとした木々の間の彦根城、街の広がり、うすぼんやりと琵琶湖も見える。城の栄えし頃に思いを馳せながら、彦根八景を満喫し下山した。

12時、次の見学先、安土に向け出発。途中、ランチタイムをとり、13時過ぎ、レストランを出る頃になって雨が降り出す。安土駅に近い「安土城考古博物館」に着く頃には雨も本降りとなる。13時50分着。常設展示室で滋賀の歴史や文化に触れ、別館で丁度開催中の「信長の館展」を見学する。20分の1に再現された幻の名城「安土城」、絢爛たる「黄金の間」。天正10年安土御献立復元レプリカ(信長が徳川家康、穴山梅雪を安土城にもてなした饗応メニュー)にも目を見張った。アワビなど数々の御馳走が、実に美味しそうに作られている。 「この時の接待役を命じられたのが明智光秀であったが、信長は、将軍の御成のようで支度が行き過ぎていると怒りを露わにし、光秀は小姓衆に殴打され、接待役を解任された上、備中で戦っている秀吉の支援を命じられた。この時の仕打ちが原因で、本能寺の変は引き起こされたとされている」と資料館の案内書に記されていた。

「絢爛たる安土城」と題したD.V.Dを鑑賞した後、赤い満天星紅葉に見送られ資料館を後にした。京都に向かう西谷2名を安土駅まで送って頂き、一行は、一路、岐阜羽島へと向かった。

3日間の「ロマンの山旅」は、歴史に触れながらの、私ごとき高齢者にとっては程よい登山、見学と、実に楽しく、たくさんの思い出とともに終了した。

企画し、3日間案内をしてくださった横田さん、車の運転でお世話になった高橋さん、有難うございました。

 

 

付記:登山の途中、横田さんに「賤ヶ岳」「己髙山」の山名の由来を伺ったところ、帰宅後直ぐに調べて連絡してくださった。感謝と共に、ここに添付、掲載します。

 

 「山名の由来」について

賤ヶ岳:…全国行脚の行基が、この地で精舎を建立しようとした時、

山の賤(民)が現れ「我、精舎の守護神とならん」

と大声でいった。そこで大音大明神として祀り、山を賤ヶ岳と称した。

また、一説に、伊香具神前で美しい女性と会い、何人と尋ねると、

「西方に高き山あり、これ賤の棲むところ」と答えたことからとも伝える。

 

己高山:滋賀県伊香郡木ノ本町と東浅井郡浅井町にまたがり、金糞岳の西尾根の

途中から南に派生した支尾根上に位置する。

木ノ本町や高月町からどっしりした大きな山容を仰ぐことができる。

山名はその敬称による。地元では「こたかさん」「ここうさん」とも呼ばれてきた。

以上出典「新日本山嶽誌」