お知らせ山想倶楽部

■ 2015.01.21

奈良の二上山、葛城山等の史跡巡り(山想倶楽部)

奥大和の里山と野辺の古刹を訪ねて

~皇紀2674年の御世に光あれ~        

平成25年師走

 

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葛城山での集合写真

 

参加者:武田鞆子(企画)高橋聡、石原達夫、吉永英明、西谷隆亘、

西谷可江、廣島孝子、永田由紀子、石岡慎介 (随想)

この国が歩み、営々と育んできた命のひかりがクラブライフにもつながり、歴史の山旅がまた巡ってきた。1300年という悠久の時に身を置き、若き日々の健常を想うと静かな感傷がある。秋熟晩成の11月中旬、知立の女性岳徒のおかげで奈良西方に2名山を訪ね、シルクロード東端の古道を歩く。山里は刈り入れも終わり、静かな柿日和であった。

 

16日(日)山仲間と近鉄御所の出会いを楽しみに大阪南河内に単身足を運ぶ。7世紀に活躍されこの国の精神文化の礎となった聖徳太子ゆかりの地である。太子町名はいつごろからか不明だが、法隆寺、四天王寺にくらべPR不足をなげく役場の方が上ノ太子駅で迎えてくれた。観光課準備の資料をいただき、「磯長山叡福寺」へ送ってくれた。この御廟は三骨一廟と言われ生母の皇后と太子ご自身、同妃の棺が納められる香り立つような名刹であった。太子は生前にこの地を墓所と定められたが、太子を摂政の宮として任命し,大子から仏教講話を受けられた日本初の女帝第33代推古天皇が太子の死後建立し、聖武天皇が伽藍整備をしたほどの大切な史跡なのである。信長兵火で焼失後は豊臣秀頼が再興している。昨年の旅で曽我入鹿首塚と出会ったが、なんと聖徳太子の子山背大兄王を皇位に就かせないために、殺害するという暴挙に出た史実の入鹿である。

山里はミカン狩りのシーズン最中で、小粒だがコク深い実りをチョイいただいた。

 

太子廟を起点に父上の第31代用明天皇、推古天皇御陵、遣隋使として三度も渡航した外交使節の小野妹子墓を経て、大化の改新後即位された第36代光徳天皇陵“うぐいすのみささぎ”に詣でる。現在の池坊流華道につながる妹子の末裔を示す大きな石柱には驚いた。たっぷり夕暮れまで歩き回って竹内街道に出た。6~7世紀には難波大阪と奈良を結び飛鳥へ至る日本初の官道である。太子町からは仲間と登る二上山を越え、葛城にいたる古道となっているが、黄泉の世界は政治の中心飛鳥からかなり隔離した立地が考えられていたようである。

土産物店で葛もちをいただいていると「昨夜まで天皇皇后様が橿原に二泊され今日は三輪山、そのあと吉野川上に向かうそうです」と女将が語ってくれた。祭祀の主として老躯に鞭うたれる両陛下とめぐり合わせ、平成の巡幸「国見」に女将も感無量であった。

 

翌朝17日(月)橿原神宮に出向き紀元2674年を寿ぐとなにか清々しい。孫への土産といえば、「まんが神武天皇」だが、一大発見する。日向国から海路河内国へ向かった皇子は、そこで荒くれ者たちの抵抗に遭い、南下して紀州の国から上陸したという。和歌山にいまある「新宮」市の由緒もうなずけてくる。神武天皇のご本名は、カムヤマトイワレビコのミコト(神倭伊波禮毘古の命)とあった。

 

12:30  8人の仲間と御所で落ち合う。葛城ロープウェイ下まで奈良交通を使い、登頂開始。北尾根コースは見るからに急登なので、リーダーは櫛羅の滝を経由する行程をとる。クジラと読む由来は不明だが、圧倒的な杉植林体で薄暗く趣もなにもないが、滝は端正な景観であった。黒ゴマ点々に満ちた花崗岩土壌の山峰に気づく。台風の影響か山体崩壊痕は随所にあったが、むやみやたらな人口植林の為だろうか、弱い地盤で木道階段の長丁場である。歩程3時間ほどで奈良と大阪を360度展望できる山頂に着く。

その夜は芒が原の「葛城高原ロッジ」に入るが、貸切りのようでユッタリ。熱燗に合鴨の鍋に舌鼓を打つ。鴨肉の歯ごたえと出汁は絶品で、聞くと岩手鴨とは育て方が違うと自慢気だった。

 

18日(月)早朝葛城山に別れを告げ、標高差300㍍を一気にロープウェイ下山で6分程。奈良盆地や大和三山を眼下にモミジの黄葉、真紅のドウダンツツジに気付いた妙齢女人が「どうだん私を見てよ!」と讃える。女性リーダーは、葛城で忘れてならないことに触れてくれた。修験道の祖「役行者」がこの地で誕生して、葛城山野を飛び回って鍛錬し、その後吉野から熊野大峰へと駆け巡ったという伝説だったが、我らが山歴にもつながりうれしかった。葛城古道に入ると、古事記や日本書紀で伝承される道辺の寺社や史跡めぐりである。のどかな田園と舗装路を繰り返しタップリ6時間は歩かせてもらう。この道は奈良盆地から大阪金剛を経て葛城連山の山裾を南北に走る大道となっており、この国が成り立つ神話と信仰の原風景が連なっていた。

 

まず親鸞の師法然上人の「浄土宗九品寺」に詣でる。静謐明浄の名刹である。九品とはおもしろく問い合わせると、現世の生き方には九種類あるそうで、その人の品性によって阿弥陀様のお迎えがちがうようである。「この人上品? あの人は下品!」とはここから来るんです」と和尚様の教え。本柱大書のお言葉の本意を聞くと、今ある自分の命の尊さと今の自分につながる始祖に対する感謝の心を説かれた。

裏山には千体石仏が鎮座していた。南北朝時代にまでさかのぼる史跡だが、時代はどんなに変わっても、戦乱に消えた命も、魂は永遠に息づいている。来年は戦後70年の節目、なんと民間、軍属で300万有余にもなった天上の御魂をよもや誰にも無にはしえないだろう。第125代今上陛下は皇后さまと来年再び遠い玉砕の島に渡られる。

法然さんが詠んでおられた。花のうてなとは蓮の花、その上に留まる水一滴。心の平安をいただく時こそ人生なのか、はかない身であればこそ今この一瞬を大切に生きる山想人であった。

 

露の身はここかしこにて消えぬとも心は同じ花のうてなぞ (法然上人)

 

高丘の宮跡にはいる。初代神武に続く綏靖天皇の皇居として伝承されている野辺の史跡である。大正4年の碑を見たが、日本誕生の国威発揚を物語る一章として古事記伝承を具現しているのだろう。南北朝時代の武人北畠親房の「神皇正統記」を読むと、「大和の葛城高岡の宮」とある。

次いで「一言主神社」本殿に参拝。雄略天皇のお狩場一帯だったところと伝えられ、この辺りで一事主神に出会って、大悪の大王が有徳の天皇に変身したという。生身の人間として願い事はたくさんあってもダメで、原初信仰の社では一言の願いならかなえてくれるそうだ。地場の産業振興には苦労の痕を感ずるが、杉の木桶の香が懐かしい醤油や麺ツユの店に立ち寄る。どうもこのあたりでは棚田農法で雑草除去に役立っている「倭鴨」が名物らしい。十分運動させているから肉の歯ごたえは前夜十分に楽しんだ。

 

「長柄神社」は大国主命の娘下照姫がご祭神。天武天皇も行幸された由緒正しき神社で日本書紀に記述があると立札にある。次は「髙天彦神社」となる。天孫降臨の伝承碑があり、この国で最初の神が鎮める社で参道の老杉は味わい深い。古代豪族葛城氏の最高神だが、境内には歌舞伎演目ともなっている「土蜘蛛」が埋葬されていた。土蜘蛛とは天皇に刃向う賊軍の喩えなのか、先住民への蔑称なのかわからなかった。

神社参拝はまだ「高鴨神社」へ続く。3000年前の弥生中期から祭祈の中心となっており本殿で旅の安全を祈願する。京都加茂大社をはじめ全國にある賀茂社の元締めとかで鴨族という豪族発祥の地とある。神道につながる国体の散策路がこう続いても、「神は父、仏は母」のこの国ではアメリカ流にいうなら“ゴッダ ブレス ニッポン”ともなるのだろうか想った。

こうして4時ころ古代ロマン、神話の舞台を現代に残すキツイ散策が終わり、迎えのコーチにピックアップしてもらう。約10キロ、5時間行程27000歩は、平均73歳高年世代にとっては救いの神である。宿泊所「葛城の森」に入り湯船で安堵の息をついた。

 

19日(火)最終日何十年来憧れの的だった里山と寺社が組みこまれていた。リーダーより彼岸と此岸の境にあると案内された「二上山」と有り難い極楽寺で有終の美を飾る。山麓まで送ってもらうが、バスの中遙か遠くから眺めればラクダの背の様な山波である。恋人同士、家族ハイク、老夫婦に出会うが,おそらく奈良県下で最も愛され慕われる里山ではないかと実感した。さしみ竹林を養生している穏やかな老人と会話しながら風雅な山門をくぐる。

「雄岳」(517㍍)、「雌岳」(474㍍)は双耳峰みたいである。北の生駒、信貴山系と南の葛城、金剛山系をつないでいるが、大阪里山へと来年の夢舞台はひろがる。占優植生は圧倒的に落葉広葉樹で植林は許されなかったような貴重な里山にも思えた。地質は粘盤岩や凝灰岩からなり、切り出された岩石で石室、石棺を巡検できた。旧石器時代はサヌキ石が槍、矢じりの石材産出地として、またどこかの神社では東北産の翡翠交易の紹介もあり、まさに太古から中世にかけて人と自然と文化が融合する集積地のような山麓だった。

 

いよいよ大津皇子の陵墓に向かう。五木寛之、白洲正子、深田久弥、立松和平、里中満智子氏など多くの文人墨客が虜になってしまうほど小説、随想、漫画が花盛りである。第40代天武天皇の第三皇子として勇敢、聡明な資質が逆に疎まれ、皇位継承の争いなのか謀反の罪を着せられ死罪となる。天武の死後、お妃だった皇后さまが持統天皇として第41代を継承される。ご自身の皇子を次世代として望まれる母心に対して、病弱な草壁自子は即位できずその御子のお孫さんが第42代文武天皇となられたのは歴史の皮肉である。

皇子の姉大伯皇女には弟の死を嘆き悲しみ、その魂が二上山へ還って山に化身したような永遠のいのちの慟哭を詠まれる・・・朝廷権力の犠牲になったわが弟よ、無情な世の中、私は人として明日からは〝ふたがみやま“を皇子の代わりとして見て生きてゆけばよいのでしょうか・・・と万葉集に伝わる。

JAC大先輩深田久弥氏は、50年前帰天して3日後に志げ子夫人が代理出版された最後の著「百名山その後」で、大津皇子の辞世の歌に触れられた。

ももづたふ盤余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ (大津皇子)

 

・・・いわれの池で鳴いている鴨を今日を限りと見納めながら、私は雲に隠れ去って死んでゆくのか・・・と死を命じられた24歳男の本懐として、人生勝てば謙虚に、敗れても健気に、潔く死地に赴くのだろうか。清廉潔白な自分を信じ切って彼岸の旅に出た人品骨柄こそ今も愛される所以なのだろう。照葉樹の小高い土盛り陵墓を一回りしてから厳粛な面持ちでその場を離れた。

「雌岳」頂上に向かうと「太陽の道」として自然科学の謎解きのような日時計が置かれていた。古都箸墓を中心に淡路から伊勢に通じる北緯30°20分の東西線に社寺遺跡がつながっているというのである。この国の古代祭祀の太陽信仰からもうなずける証左であった。

 

旅の仕上げは、「當麻寺」と「西南院」である。1300年前に聖徳太子の弟君磨呂子親王が創建された名刹である。極楽の地とはさもありなんとばかり善男善女で賑わっている。調べると古代豪族當麻氏はこの一帯を本拠とし、葬送儀礼役を任務としていたようで飛鳥からみて陽の没する方に貴人陵墓が多いのもうなずけた

西南院では無数の景石に寄り添う色変えぬ松、紅葉黄落の極楽浄土の風情にしばし心遊ばせてもらった。

極楽をいづくと問わば大和なる麻呂子の里にゆきて尋ねよ (ご詠歌)

 

法然上人が唱える念仏者の極楽願いなのか、樹下石上が己の安らぐ居場所なのか、櫻花爛漫の當麻寺をイメージしたが、80歳代になっても再訪したいな~~と思わせる極安楽の地である。途中で相撲開祖の地の塚にも出くわしたが、古代河内の荒くれどもは、天覧試合のキャラでもあったと初めて知った。

 

こうして往く秋を惜しむように大和紀行は終る。お蔭さまで女性リーダーは上手に歴史を思い出させてくれた。先輩岳人は『温故知新』の旅と喩えていた。「歴史を知る」とは、“古え人の口振り、手ぶりが見えたり聞こえたりするような心の体験をいうのだ“という小林秀雄の名言が思い起こされた。

道辺の甘柿をチョイといただいては食らいつき, 昼食は柿の葉寿しとニューメンで仕上げ、残り世を生き抜く極安楽が有難く、万葉まほろば線に乗って全員無事に帰路についた。

 

柿食ふや命あまさず生きよの語 (石田 波郷)