山研合宿個人山行 |
日程 | 2003年9月15日 |
参加者 | 渡辺、小山、高橋、石岡 4名 |
記録 | 石岡 |
卜伝の湯 |
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山青く 湯うるわしく 〜祖先は夢み、子孫は行ふとかや〜 「分け入っても分け入っても青い山」ならぬ霞沢岳登頂から一変した二日目の4人組は、しっとりと湯けむり探索に身をゆだね、山旅から癒しの旅路となった。もう一班は健脚組、焼岳登頂である。秘湯とお蕎麦めぐりの一日とは60代の山行歴としては、おそらく前例なき初々しさかもしれない。心躍らせ、山研を9:00出発した。 それでは山の温泉自然学珍道中です。まず、5:00 松本駅で全員集結をゴールに、上高地観光案内で中の湯温泉――白骨温泉――乗鞍温泉を効率的に徘徊するルート、交通機関、時間割、ソバ所など設定した親切な案内ではあったが、何と中の湯と教えてくれ最初に訪問したところが焼岳組みの下山秘湯となっている「ト伝の湯」であったとは、お釈迦様でも知りませんでした。 ドライバーが、停車予告を忘れるくらいトンネルの中のバス停で下車、近くにあった掘っ建て小屋の案内所が、本家中の湯の支店案内所だった。親切な中尾お姉から、宿泊客のみ本家温泉は利用できるという説明があり、仕方がない。その掘っ立て小屋の裏にあるのが、なんと偶然にも焼岳組を先回りすることになってしまった、「ト伝の湯」であり、”黙っていよう、自慢話が出るまで!“なんて、ニタリ秘め事になってしまった訳でした。それでは、話を本旨に戻しましょう。最初の「ト伝の湯」は、剣豪武蔵の太刀を鍋蓋でハッシと受けたとか由緒ある塚原氏の湯とか能書きはあったが、まずは信ずることとした。鉄分が多そうな黄銅岩の洞窟ぶろ。岩壁からしたってくる冷泉の量が多く、ぬるめでクセがなく永く付き合える感じで、順番待ちも忘れてじっくり浸かっているうちに、じわっと柔らかく温まってきた。湯の中のただよい、岩と湧水と人がひとつになったような安堵感。原始人も愛した洞窟か! これが秘湯の醍醐味だろうか? たっぷり入浴できたのも、実はといえば、楽しい合縁奇縁があってのこと。栃木からひとりマイペースで、穂高縦走後この湯めがけてたどり着いたという岳人にも声をかけ、混浴と相成った。笹沼さんといい40代にはお見受けしたが、一緒に湯の中一献かたむけていると、“人生苦あれば、楽ありですな”などといわれる。“はてな“と思いきや、50代で地域の山登り教室に熱心な、でも気も使うであろうボランティアのプロでした。時には、笹沼さんのように、ひとり山行でおもいっきり自分発散したくなるのも肯けた至福の時でした。 さて次は、真打登場「白骨温泉」。 ヒヤヒヤするバス停から一路タクシーで40分、「はっこつ」などと発音する若い世代もいるとか。公共野天風呂ではあったが、身も心も山塊の湯に溶け込むというか、乳白濁のいで湯が待っていてくれた。4人の頭には中里介山の「大菩薩峠、白骨の巻き」の机龍之介が浮かんでいた。硫化水素泉とか、かなり熱くじっとり汗をかく。石ぶろは岳人ばかりでなく、観光客で大賑わいだが、見下ろせば急峻な流れが侵食した石灰岩のトンネルからほとばしり、見上げれば石灰岩壁に咲く大文字草の可憐な姿に微笑む。縁の石に頭をのせ、 体の力をぬくとふわっとした。濃い緑に囲まれ、たぎる川音を耳にして、またいつかこの湯に一人遊びたい贅沢を思う。 混雑から抜け出しいよいよおそばや探しだ。実は、山研でも観光案内でも、「そばいがや」とか「そば中之屋」とか名うてのところは紹介されていたが、どうもコースから離れるため、涙を呑んでいた。この温泉街から近いところとして、「恵比寿屋そば店」しか選べなかった。十数軒の高級旅館のはずれにあったが、道すがら山の自然学から観察しているとおもしろかった。 この一帯には何億年前かに温泉が噴出したという噴湯丘がたくさんあり天然記念物になっていた。今は遺物の噴出口の炭酸石灰の堆積岩を食むように樹林帯がある。ここかしこ岩が根となっているたくましい樹木の生命力に感動しながらとぼとぼ歩いていた。 「岩が根のこごしき山に入りそめて、山なつかしみいでかてぬかも」とは、東山画伯の万葉の愛唱歌だとどこかで読んだ気がする。 昼飯の蕎麦屋さんは、家族ずれで賑わい、芸能人のサイン色紙もべたべたしていたので、「はてな!」とも思ったが、賞味することにした。正直われら“そば通”をうならせる代物ではなかった。上条恒彦の“きっとお前は風の中でまっている”というサインがえらく気になった。 最後は乗鞍温泉郷である。スーパー林道を30分とばす。乗鞍岳中腹から湧く弱硫黄泉も今では人気の大リゾートで秘湯とは程遠いが、有名な「湯けむり館」に到着。ここもかなり混雑、ザック組みは遠慮するくらいである。全館真新しいたたずまいで、ヒノキ張りの露天大浴場で最後の一献かたむける。ト伝や白骨の湯とはがらり趣が変わり、開放感そのもので、暮れなずむ時空にも白い雲がぽっかり浮かんでいた。こうして、湯の郷紀行は幕となり、値切り大成功のタクシーで一路松本へ、窓からの風が気持ちの良いドライブだった。事後談ではあるのですが、神田古本屋で、ある日の事、“アルピニストの手記”なる山岳名著に出会いむさぼり読むうちに、ドキリうれしくなるような一節があった。「さあ、私は誰でしょう?」 概念図はどうなるだろう? 明治35年八月に友人岡野金次郎氏とともに、槍ヶ岳を白骨温泉方面から登った。白骨から霞沢山の尾根に取りついて、カミグチ(神河内)に下り、初めて梓川に驚き、穂高岳に戦慄し、槍ヶ岳に登って魂を天外に飛ばした。・・・今を遡る101年、わが先達による日本アルプスの黎明である。 |
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