お知らせ四国支部

■ 2012.02.15

近藤信行氏講演会「小島烏水に学ぶもの」

山岳講演会「小島烏水に学ぶもの」について報告   尾野益大

近藤先生の講演記事より

日本山岳会関西支部の四国在住者で作る四国同好会が10月17日、徳島市内の文化の森21世紀館で講演会「小島烏水に学ぶもの」を開いた。講師は烏水研究の第一人者である作家・近藤信行氏(元理事・評議員)。会員や一般登山愛好家約85人は、近藤氏が語る四国出身の烏水の生い立ちや烏水が日本で初めて近代アルピニズムを広めるに至った経緯、登山だけに収まらない彼の幅広い功績について耳を傾け、熱心にメモをとったり写真を撮ったりしていた。
初めに烏水の生い立ちについて近藤氏は、誕生地は現在の香川県高松市で2歳で東京に出たことを紹介。「故郷については母から聞いた記憶しかなかった。父親についてはあまり語らなかった」と語った。「烏水が生まれた高松藩は明治維新後、佐幕についたため好遇されなかった。烏水の家族は東京から横浜に移り住み、烏水は横浜商業学校に通った。一家は明治政府に受け入れられる存在でなく、いろいろな苦労を味わことになった」と続けた。
「烏水」という雅号について、近藤氏は「明治30年ごろから使われ始めた。滝沢秋暁から鵜の真似をする烏に似ているといわれたことに由来する」と紹介。烏水が文壇で注目され活躍がめざましくなった理由として、樋口一葉が亡くなった直後いち早く「一葉女史」をまとめた点を挙げた。「一葉研究の中で烏水の業績が見逃されている」ことも指摘した。
烏水ら明治初年に生まれの人が活躍した時代は、日本が近代化し街道、鉄道を整備し未知なるものを求める時代だったことを指摘し、古いものに学びながら仕事をしたことを強調。「過去に学びながら生き、文学も面白くなっていった。烏水はそうした時代に生まれた」と解説し「文学評論、社会評論、紀行文などあらゆる点で烏水は仕事をしてきた」と高く評価した。烏水が銀行員としてアメリカ西海岸に滞在中、日本から国外に流出した文化的財産を収集していたことにも触れた。
近藤氏は、烏水が山に目覚めたきっかけとして旅があったことに着目。烏水の最初の著書「扇頭小景」を手に掲げ、この本に烏水が東京立川から多摩川沿い歩いて甲府に入り、富士川を下って東海道に出て帰った紀行文が綴られている、と説明。「歩くことによって発見したものが財産になっている。車に乗って通るより重要だったことを教えてくれる。味がある本だ」と讃え「烏水の紀行文を考えるとき、幸田露伴が影響している。露伴は明治20年代から物書きを始め博学で読書家。物事を見るのに極めて精緻。烏水はその露伴の紀行文に憧れ影響を受けた」と話した。露伴にならって烏水が中山道を歩き、飛騨山脈の大きな姿や立山に向かうときに越中の山々を偶然発見した、と持論を展開した。
さらに烏水が登山家として活躍する背景について、近藤氏は「山登りはまだまだ未知未開の分野だった」と表現。明治27年に志賀重昂が著した「日本風景論」の影響を受け、旅としての漂白を続ける中で自分に気付き高山を選んでいった、と述べ、烏水が最初に発見した山は乗鞍岳で、乗鞍岳に登って槍ケ岳を発見したことを明らかにした。
その上で近藤氏自身が2度にわたって烏水が辿った同じルートを歩いてことを紹介した。そして「当時は山を巡っていた探検時代にふさわしい風潮があった。ガイド本はなく、日本風景論も役に立たなかった。自分の目で確かめて記録し、後世に残すことが大切だった」と近藤氏は強調した。加えて烏水の「山を讃する文」では山を伝える意識が色濃くなる様子が分かると分析した。
また烏水が当時、年に1回2週間大きな旅行をしていたことを取り上げ「登山は坊ちゃまのものだった。他の人が登山をすることは普通の世界からはみ出し者になる」と話した。続いて現代の登山の風潮について「何も感じないで登る人がいるという嘆かわしい状況もある」と疑問を投げかけた。
近藤氏は最後に「烏水は未知への憧れをもって活動した。彼にとって文学、芸術、山歩きは余暇だったかもしれないが、しかしその中にプロフェッショナルなテーマを見いだした。大いに学ぶべきことがある」と締めくくった。
講演会の冒頭、近藤氏は四国との数々の縁についても詳しく紹介。昭和34、35年、愛媛の八幡浜から松山・今治市を訪れ、美空ひばりさんの取材で訪れたのが最初だった。徳島市の象徴・眉山にロープウエーで登った経験では「裾野に瀬戸内寂聴さんの生家があることを知った。彼女がまだ新人のころだった。海のものとも山のものとも分からなかった。集まりで同席した際には彼女はよく阿波踊りを踊っていた」と振り返った。また、香川県の金刀比羅宮に北原白秋が作った山の唄「守れ権現 夜明けよ霧よ…」から始まる歌碑があることに触れ「同じ歌詞を部歌に用いた慶応大学山岳部と金刀比羅宮とがどういう関係があるのか長年興味を持っている。三田幸夫さんも由来は知らなかった」と話した。
さらに愛媛県松山市の登山家・北川淳一郎氏の晩年の随筆集「四国山岳夜話」を手に持ち、北川氏が「山格」という言葉を生んだ人であることを詳らかにし、日本百名山の著者・深田久弥が使っていた「山格」という言葉が深田氏の造語ではなく、北川氏の造語であったことを指摘した上で近藤氏は「深田氏は聞いた言葉を作品にすぐ取り込むことが得意だった」と語った。
近藤氏は徳島に来る際、バスから眺めた四国一の大河・吉野川の印象について「大きな川だ。上流の深い山を思い、祖谷の静かなたたずまいに思いが巡った」と感慨深そうに話した。
この講演会に先立ち、関西支部長の重廣恒夫氏の挨拶があったほか、愛媛県出身の写真家・白川義員氏と香川県在住の三谷統一郎氏から送られたメッセージが読み上げられた。重廣氏はエベレスト北壁世界初登頂・K2日本人初登頂などの実績を持つ登山家。白川氏は全米写真家協会最高写真家賞・日本芸術大賞・紫綬褒章などの受賞者で「世界百名山」「南極大陸」の著者としても知られ、三谷氏はヒマラヤ八千㍍峰を6座登っていることで有名。
講演会の翌日には、近藤氏と会員・一般参加者計18人が小島烏水ゆかりの香川県内を散策。午前中、烏水が生まれた高松市番町と烏水の先祖が務めていた国史跡「高松城跡」、高松藩の庭として知られる国特別名勝「栗林公園」を観光見学した。午後には金比羅宮に足を運び、長い階段を経て北原白秋の山の唄を刻んだ歌碑を見学した。歌碑を見るという長年の願いを叶えた近藤氏は「来て良かった」と何度も感想を漏らし、石碑を手でさすりながら周りを歩いていた。ただ、石碑は金比羅宮が建てたもので慶応大学山岳部とは関係がないことが分かった。
徳島に入った際、吉野川の上流に思いを馳せた近藤氏は、さらに翌日、祖谷渓谷を訪ね、シラクチカズラで編んだ「祖谷のかずら橋」と断崖に挟まれた峡谷「大歩危・小歩危」の景勝地を楽しんだ。