お知らせ四国支部

■ 2012.02.19

白川義員氏講演「四国の山から世界百名山」

2012年2月12日に日本山岳会四国支部記念式典の一環として徳島市で開かれた白川義員氏の講演から印象に残った言葉を箇条書きにして紹介します。 

 〇順法精神に法って、許可を全て取って写真を撮る。全ての写真の許可を得るのは不可能に近い。その不可能を可能にしたので、世界百名山は「前人未到」と言われる。

〇マッターホルンが鏡に映ったように見えた。この写真を撮ってやろうと思い新聞社を辞め、6年間、4月から9月の間、毎日撮影し写真集を作った。

〇「ヒマラヤ」はニューヨークタイムスで絶賛されたが、日本では評価されなかった。日本人は足を引っ張る。

〇「アルプス」はスイスで80万部売れたが、当時日本では売れなかった。真っ赤や黄色の写真は、それまで1点もなかった。

〇ヒマラヤでは夕方、星が見える。

〇マチャプチャレはヒマラヤではベスト5に入る、素晴らしい山。大好きな山。地元グルン族の伝承では、頂上近くの窪みに女神が住んでいるという。未来永劫登山許可は下りない。マチャプチャレは地上から見ても、飛行機から見ても凄い山だ。

〇ヒマラヤでは7千メートル峰が300、6千メートル峰は数えるのが不可能なくらいある。ほとんどが無名峰だ。

〇最初のヒマラヤは高山病との戦い。シェルパは命令を忠実に守る。意識不明のまま、真っ赤な山を撮った。

〇ラムジュン・ヒマールを北側から撮った時は、ネパール国王の弟が便宜を図ってくれた。

〇南極を撮る計画は文部省に潰された。日本は個人が大きな仕事をするのを認めない。写真集「永遠のアメリカ」を出版したので、アメリカ政府が援助してくれた。撮影時は、7か国が応援してくれた。

〇チュンゼルマ峠からのジャヌー。どこが峠かわからず、探すのが大変だった。イタリアのセッラの不世出の傑作とされる「チュンゼルマ峠からのジャヌー」は自分からすれば、くだらない作だ。彼を凌駕する写真をと思い、真っ赤なジャヌーを撮った。自分は百年後に評価されるようなものを目指している。

〇エベレスト東壁を撮影している時、飛行機が西風を受け、ダウンバースト状態になった。頸椎を骨折し、一生寝たきりになるかもしれなかったが回復し、保険金が一億くらい入ったのでまた写真を撮りに行った。しかし二度目のエベレストは細胞レベルで恐怖の記憶がまだ残っていたが、三度目の撮影時はいい気分で臨めた。

〇マカルーの東壁。東海支部が登頂している。

〇マナスル。1956年日本山岳会第三次隊が初登頂。日本人が初めて登った8千メートル峰なので思い入れがあり、世界百名山にも3点掲載している。登頂から9日目に報じられた。登山隊を迎える時は、蒲田から羽田まで人で埋まった。

〇K2、ムスターグ・タワー。パキスタンの山は地上から近づけないので、空撮しかない。ムシャラクさんに直接会って許可をとった。

〇マッシャーブルムは重廣恒夫さん初登頂した。

〇インドのナンダ・デヴィ。日本山岳会が東峰から西峰まで縦走した。「いつかある日、山で死んだら」を作ったヒブラが滑落して行方不明になった山。

〇デナリ(マッキンリー)は最も赤くなった山。

〇アルパマーヨ。ペルーアンデスの山。山の人気投票ベストテンの第一位になった。

〇自分は360度から見て、撮影している。127山から100名山を選んでいる。選定委員も26名のそうそうたるメンバーだ。

〇四国の山は、高校生の頃、石鎚山に3回、仲間と登った。四国中央市の家の裏は田んぼが広がり、青々とした法皇山脈が見えた。トンボがいっぱいいた。秋は茜色の霞の彼方に法皇山脈が見え、冬になると寒々とした風景の奥に、上が白くなった法皇山脈が見えた。今思えば、私の原風景だ。

〇これまでの原風景は鳥海山だと思っていた。大学生の頃、山岳写真協会会長の塚本閤治さんに連れられて、初めて登った冬山が鳥海山だった。頂上で夕日を受け岩氷がキラキラ輝き、日本海に夕日が沈んだ。山は凄いなあと思った。それまでは人間ばかり撮っていた。

〇久しぶりに故郷に帰ってきて、法皇山脈を見ると、原発からの送電線が林立していた。かけがえのない地球、運命共同体を大切にしなければならない。

〇人間と動物を分けるのは人間精神で、それを人間に付与したのは自然だ。

〇人間の考えが遠く及ばない、森羅万象に恐れを感じた。我々の思考を超えた偉大な精神の存在を感じる。

〇ヒマラヤで何度も死ぬ思いをしたので、神を感じる。