日本山岳会の発起人

発 起 人

 

城   数 馬(1864~1924) Jou, kazuma

山岳会設立発起人7人中最年長で会員番号1番。福岡県久留米生まれ。東京帝大卒業、弁護士から、東京市議会議員。設立当時すでに東京弁護士会副会長、東京市議会副議長を歴任していた、発起人中唯一人40代の知名人。31歳の小島烏水以外みな20代の若者であったため、城の知名度や山野草愛好家の華族や貴族院議員らとの交友・人脈を考慮して、発起人に担ぎ出された。登山は山野草採集のためで、日光の山や白馬岳、戸隠、八ヶ岳に登った。現在絶滅危惧種に指定されている「ツクモグサ」(キンポウゲ科)は城が八ヶ岳で採集して、祖父九十九(つくも)にちなんで命名したと言われる。

 

小 島 久 太(烏水)(1873~1948) Kojima, Kyuta(Usui)

1905年(明治38年)の「山岳会」(1909年に「日本山岳会」と改称)設立発起人7人の中のリーダー格で、初代会長。香川県高松で高松藩主の御用人を父として生まれる。横浜商法学校(後に横浜商業学校)を卒業、横浜正金銀行で銀行家として務めるかたわら、文芸評論家、随筆家、浮世絵コレクターとして文筆活動を続け、年2週間の休暇を利用して探検登山を行った登山家として知られる。山岳会設立3年前の1902年(明治35年)には槍ヶ岳登頂。英国人宣教師で登山家ウォルター・ウェストンらとも交遊があり、ウェストンから直接山岳会設立を勧められた。横浜正金銀行から派遣されてシアトル、サンフランシスコ、ロサンジェルスに滞在、その間にシエラ・ネバダ山脈やカスケード山脈などにも登っており、すでに欧州の近代登山について相当な知識を持っていたといわれる。著書に『日本アルプス』4巻、『槍ヶ岳からの黎明』などがあり、『小島烏水全集』が刊行されている。自然主義派小説家田山花袋とも親交があり、田山のほか多くの文学者・文人が山岳会に入会しているのは小島の交遊関係の影響といわれている。

 

高 野 鷹 蔵(1884~1964) Takano, Takazo

山岳会発起人の一人。日本博物学同志会横浜支部の中心メンバーで、当時の日本における高山蝶研究では同志会でも第一人者であった。「山岳会」設立時、高野のほか同志会から多数が入会している。著書に『蝶類名称類纂』がある。横浜生まれで、家は、初代会長になる小島烏水が勤めていた正金銀行の近くにあり、当時の主要輸出品の生糸、羽二重の船積みを引き受ける回漕業と荷主である商人を泊める宿屋を営み、多額納税者であった。その関係もあり、1909年に山岳会の事務所は高野方に置かれ、現在の「日本山岳会」に改称された。山岳写真集『高山深谷』を1910年から1917年まで毎年、第8巻まで作成して初期の山岳会の活動に大きな貢献をした。後年、ローラカナリヤを日本に導入、その飼育の権威となる。

 

高 頭 仁兵衛 (1877~1957) Takato, Nihei

山岳会設立発起人の一人で、日本山岳会第2代会長、のちに名誉会員。新潟県三島郡深才村(現・長岡市)の豪農。山岳会設立にあたり、高額の財政援助を申し出たことで、同計画は大きく進展し、年間千円(当時の会費で千人分)を18年間提供し続けて創立当初の山岳会を財政面から強力に支援した。日本最初の山岳百科事典として知られる1360ページの大著『日本山嶽志』(1906)を独力で編纂した。明治の登山の黎明期に乗鞍岳、槍ヶ岳、木曾御嶽など多くの登山を行ったが、1898年富士山登山後、志賀重昂(しが・しげたか)の『日本風景論』を読んで登山に意欲を燃やしたものといわれている。
 

武 田 久 吉(1883~1972) Takeda, Hisayoshi

山岳会設立発起人7人の1人。第6代会長(1948~51年)。幕末から明治にかけて来日し、駐日公使も務めた英国外交官アーネスト・サトウと妻武田兼の次男。父サトウの影響もあり中学生の頃から植物や登山に興味を示し、東京外国語学校を卒業後、英国に留学。王立理工科大学で植物学を修めた後、京都大学、北海道大学、九州大学で講師を歴任、高山植物の分類と分布の研究を続けるかたわら日本各地の山に登り、尾瀬のダム化に反対するなど、自然保護に尽力した。山岳会会報の「山岳」第1号に紀行文を掲載し尾瀬を紹介している。設立当時22歳で幹事。JACの三文字を組み合わせた現会員章をデザインした。深田久弥の『日本百名山』の谷川岳や丹沢山の箇所に、武田久吉氏が先輩のアルピニストとして紹介されており、我国近代登山のパイオニアでもあった。
 

梅 沢 親 光(1885~1926) Umezawa, Chikamitsu

日本山岳会(1905年の設立当時は「山岳会」)設立発起人7人の一人。東京生まれ。東京府立一中、一高から東京帝大に進み、物理学を専攻。府立一中時代から武田久吉、河田黙らとともに博物学同志会の中心会員として富士、秩父、木曽御岳など多くの山に植物採集のための登山している。武田、河田と登った甲斐駒ヶ岳では、『山岳』に発表した記事で、信州側で白崩山、甲州側で駒ヶ岳と呼ばれていた山が実は同じ山であることを実証した。山岳会設立14年後事務所が武田の家に移った年に、年会費を入会月から1年間であったのを暦年とする規則改正が行われ、会員番号導入など変更に伴う煩雑膨大な事務処理を梅沢が手伝ったことが伝えられている。大学卒業後、陸軍砲兵学校教官を務めたが、41歳の若さで死去。

 

山 川(河田)黙(1886~1966) Yamakawa(Kawada), Shizuka

山岳会設立発起人の一人。東京府立一中在学中、ともに山岳会設立発起人になった武田久吉、梅沢親光らと博物学同志会で活躍し、植物採集のために山に登っていた。一高生の時に武田と白馬岳に登り山頂で13日間滞在、1907年には武田、梅沢らと甲斐駒ヶ岳に登り、白崩山と駒ヶ岳が同一の山であることを確かめた。また1909年には、三峰川支流の荒川から塩見岳に登り、市ノ瀬方面で間の岳と呼ばれている山は塩見岳と同一の山であることを確認するなど、早くから多数の登山記録や研究報告を『山岳』に発表している。元東京市助役の河田烋の次男として生まれ、一高在学中に養子となり山川姓となる。1913年(大正2)年東京帝大理科大学植物学科卒業、慶応義塾大学教授、武蔵高校教授、同校校長を歴任。著書に『原色高山植物』(三省堂、1928)『原色蝶類図』(三省堂、1929)などがあり、原色写真版による図譜としては最も早期のものといわれ、戦後、風間書房から再刊された。