マナスルManasuru


日本人として最初の8,000m峰に登った日本山岳会隊の記録を中心としたマナスル登山の記録

「マナスル登頂40周年特集 マナスル登山クロニクル(1950−1996) 」 
データ提供 池田 常道(山岳91より)

マナスルの概要
    位置 ネパール・ヒマラヤ ガンダキ部マンシリ(マナスル)ヒマール
    東経 84度33分43秒北緯 28度32分58秒
    標高 8163m
         (初登時は8125m、1970年8156mに改定、83年より現在の数値となる)

マナスル主峰へのルート
東面マナスル氷河側  S北東面日本山岳会ルート
 マナスル氷河から北東稜のナイケ・コルに上がり、北峰南面をトラバースしてノース・コル下へ。そこから頂上プラトー上に出る。1956年に日本山岳会隊(槙有恒隊長)が初登頂の際にたどった。72年西ドイツ隊(G・シュマッツ隊長)が第二登、74年日本女子隊(佐藤京子総隊長)が第三登。以後続々と登られ、この山の通常ルートとなっている。 
T東稜オーストリア・ルート
 マナスル氷河とプンゲン氷河を分ける尾根で、1974年の日本女子隊が試登。その後三回試みられたあと1985年のオーストリア隊(W・シュトゥダー隊長)が核心部岩稜帯の先からノース・コル方向へトラバース、プラトーに出て登頂した。また86年のポーランド隊(J・ククチカ隊長)は北東壁下部からダイレクトに東稜に達し、ピナクルの肩7600まで直登、これを左に巻きプラトーに出て登頂した。前者のルートは88年スイス隊(T・シュピーリヒ隊長)が第二登した。
西面ドメン・コーラ側  U北西稜日本ルート
 初登時マナスル西壁と呼ばれたルート。ドメン・コーラから北峰の西にひろがる氷河内院に入り、右手の北西稜からプラトー突端に抜ける。中間部に傘岩と呼んだ岩場がある。一九七一年日本マナスル西壁隊(高橋照隊長)が初登し、初のバリエーションとなった。その後再登はおろか試みた隊もない。 
V西壁フランス・ルート
 ドメン・コーラをさらに奥まで入り、西壁右手のバットレスを経て南西稜上部、さらにプラトーに出る。一九八一年フランス隊(P・ベジャン隊長)がセミ・アルパイン・スタイルで初登。再登、試登ともなし。なお西壁中央のダイレクト・ルートは手付かずである。
南西面ツラギ氷河側  W南西壁オーストリア・ルート
 ドバン・コーラ源流のツラギ氷河から下部の岩場「ロニヨン」を突破して上部盆地に入り、南西稜上部からプラトーの西端に出る。以上UVWともSに比べてプラトーの横断距離が長い。一九七二年オーストリア隊(W・ナイルツ隊長)が初登。第二登は八三年西ドイツ隊(G・ヘルター隊長)が上部盆地からアルパイン・スタイルで。第三登は八五年一月のポーランド隊(L・コルニシェフスキ隊長)で、これはマナスルの冬季初登頂であった。
南東面プンゲン氷河側 X南稜ポーランド・ルート
 ピー
ク29とのコルから始まる南稜は、1984年ポーランド隊(J・クリス隊長)によって初登された。この稜への挑戦は八〇年のポーランド隊(J・フェレンスキ隊長)がプンゲン氷河側から試みたあと、八三年の春と秋にツラギ氷河側から行われ、結局プンゲン側から成功した。第二登は九一年のウクライナ隊(V・シュミチン隊長)で、南東壁を断念後アルパイン・スタイルで南稜から登頂、北東面へとトラバースした。 
Y南東壁
 頂上からプンゲン氷河に薙ぎ落ちる南東壁は、この山の最後の課題といえよう。雪崩の危険にさらされたうえに氷雪まじりのロックバンドが立ちはだかっている。一九七四年のユーゴスラヴィア隊(J・ポポフスキ隊長)が七四〇〇に達したのを最高到達として、以後三回の挑戦はいずれもこの高度を越えてない。


マナスル登山クロニクル


<凡例>
− 文中敬称略。
−ここでいうシェルパとは高所ポーターの意で、いわゆるシェルパ族以外の場合も含まれている。
−ソ連邦、東西両ドイツ、チェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィアなど九〇年代に入って分裂・統合のあった国々については当時の旧称で示した。

○印                              
1950年春−夏 H・W・ティルマンが前年に続いてネパール入り。ドゥド・コーラからマナスルを観察するが、北峰越えの北稜ルートは困難と見て一行六人はアンナプルナ4峰を試登。その後八月に再びマナスルを訪れ、J・O・M・ロバーツがラルキャ・ラを越えて北東面に可能性を認めた。 
1952年秋 今西錦司ら四人の日本山岳会偵察隊。ティルマンのルートにしたがいアンナプルナ4峰試登後まず西面、ついで北東面を観察。サマのはずれにBCを置いてマナスル氷河に踏み入り、ナイケ・コル手前まで試登した。また、東稜上から南東面(プンゲン氷河側)も見たが、こちらは絶望的だった。 
1953年春 三田幸夫ら十五人の日本山岳会第一次隊。偵察結果を踏まえて北東面にルートをとり、プラトーの七五〇〇にC9を建設。六月一日に加藤喜一郎、山田二郎、石坂昭二郎が頂上を攻撃したが七七五〇で断念した。(なお、この最高到達点は五六年になって七五〇〇であったことが判明する) 
1954年春 堀田彌一ら十四人の日本山岳第二次隊。前年の雪辱を期したが、サマ住民の反対に遭いガネッシュ・ヒマールに変更。登頂失敗後、谷口現吉ら九人はチューリン・コーラからヒマルチュリ東面を観察、ルピナ・ラを越えた。 
1955年秋 小原勝郎ら三人の日本山岳会先遣隊。サマ問題の折衝を兼ねて入山し、ナイケ・コルまで登る。    
1956年春 槙有恒ら十二人の日本山岳会第三次隊。今回はノース・コルを経由せずプラトーへは別ルートを採り、七八〇〇にC6。五月九日に今西壽雄、ギャルツェン・ノルブが初登頂に成功し、十一日にも加藤喜一郎、日下田実が頂上に立った。
この「世界的快挙」が日本に伝えられ、新聞の第一面を華々しく飾ったのは十八日のことだった。 
1964年秋 ヤン・ブーンら五人のオランダ隊がヒマルチュリ断念後にマナスル北峰(七一五七)を試み、ノース・コルから十月二十五日に初登頂。頂上に立ったのはJ・ド・リント、A・J・ドリーセン、フーベルト・シュリーブル(オーストリア)とシェルパのニマ・テンジン、イラ・ツェリン。 
1965年 ネパール政府は中国国境の緊張に配慮して登山禁止を宣言。この措置は六九年三月まで続いた。    
1970年秋 青木敏ら二人がドゥド・コーラの支流、ドメン・コーラに入ってマナスル西面を偵察。西壁そのものは不可能と見たが、北西稜に可能性を認めた。 
1971年春 高橋照ら十一人の日本マナスル西壁隊。北峰西面の氷河内院から北西稜に取り付き、プラトーに抜け出して五月十七日に登頂。新ルートから第二登を果たした。頂上に立った小原和晴、田中基喜は十五年前に頂上の岩に打ち込まれたアイスハーケンを持ち帰った。 
1971年春 同じころ北東面を登っていた韓国隊(キム・ホスブら八人)は、五月四日、隊長の弟、キム・キスプが七六〇〇付近で転落死、登頂を断念した。  
1972年春 ヴォルフガング・ナイルツら九人のオーストリア隊が南西面のツラギ氷河に入り、南西壁にルートをとってプラトーに出た。四月二十五日、ラインホルト・メスナー(イタリア)が単独登頂したが、途中から引き返したフランツ・イェーガーが行方不明、これを捜しに出たアンディ・シュリックもプラトー上で消息を絶った。なお、五六年と七一年の登頂では酸素が使用されたが、この登山はマナスルで初めて無酸素で行われた。 
1972年春 前年失敗に終わった韓国は再びマナスルに挑んだ。キム・ジュンスプら十二人のチームには日本から安久一成カメラマンも加わっていたが、四月十日にC3(六五〇〇)が雪崩に襲われ、同氏を含む五人がシェルパ十人とともに犠牲となった。一九三七年ドイツ隊のナンガ・パルバットにおける十六人に次ぐ、ヒマラヤ登山史上二番目の惨事であった。     
1973年春 ゲルハルト・シュマッツら八人の西ドイツ(当時)隊が北東面から第四登に成功した。七五五〇のC5から四月二十二日にシュマッツ隊長、ジークフリート・フップファウアー、シェルパのウルキェンが頂上に立った。 
1973年秋 ハウメ・ガルシア・オルツら十二人のスペイン隊が北東面ルートを目ざしたが、十月十日から十三日の間にC1、C2が雪崩に流された。幸い両キャンプとも無人だったので犠牲者はなかったが、一行は六一〇〇で登頂を断念した。 
1974年春 佐藤京子(総指揮)、黒石恒(隊長)ら十三人の日本女子隊。当初東稜を目ざしていたが約七〇〇〇メートルで断念。北東面通常ルートに転じて五月三日、七六五〇にC5を建設。翌四日に中世古直子、内田昌子、森美枝子がシェルパのジャンブーとともに頂上に立った。八千峰の頂に女性が立ったのはこれが初めてであった。しかし、第二次攻撃のため翌日C5に向かった鈴木貞子が消息を絶ち、のちにザックなどの遺品がC4とC5の間で見つかった。 
1975年春  ハウメ・ガルシア・オルツら十二人のスペイン隊が二度目の挑戦で登頂に成功した。北東面通常ルートを採り、四月二十六日にヘラルド・ガルシア、ヘロニモ・ロペスがシェルパのソナムとともに頂上に立った。       
1976年春  韓国から三度目の挑戦。金禎燮ら十九人で北東面通常ルートに七八〇〇のC5までキャンプを進めたが、五月五日に雪崩のため隊長と登攀隊長が負傷、断念した。    
1976年秋  日本 = イラン合同隊が北東面通常ルートから登頂。モハメド・ハクビツ(総隊長)、渡辺公平(隊長)以下両国十人ずつのチームは、十月十二日、七六五〇のC5から影山淳、J・M・アサディとシェルパのパサンの三人を頂上に送った。通算第七登であった。  
1977年春 ゲルハルト・レンザーら九人の西ドイツ(当時)隊。北東面通常ルートを六七八〇まで登ったが、降雪と雪崩に阻まれて退却した。 
1977年秋 ジャン・フレールら五人のフランス隊。東稜をセミ・アルパイン・スタイルで攻めピエール・ベジャンとティエリ・ルロワが七五六〇に迫ったが断念。二人は凍傷のためBCからヘリコプターでカトマンドゥに運ばれた。 
1978年春 グレン・ポーザックら十一人のアメリカ隊。北東面通常ルートに七三一五のC4までキャンプを進めたところで降雪のため断念した。 
1978年秋 清水清二と加藤保男のペアがシェルパ六人を伴って北東面通常ルートに挑んだ。九月十三日にBCを設け、十月五日には七五〇〇にC5を建設。七日に頂上を目ざしたが、プラトー上は腰までもぐる深い雪で約八〇〇〇から引き返した。 
1979年春 ロレンツォ・マッサロットら六人のイタリア隊は、北東面通常ルートの七三五〇に作ったC4が五月五日雪崩に遭い、隊員二人とシェルパ二人が生き埋めになった。幸い自力で脱出したものの凍傷を受けて戦力は半減。五月十五日に他のメンバーが七五〇〇まで登ったところで断念した。 
1979年秋 ギジェルモ・ビエイロら十四人のアルゼンチン隊。同じく北東面通常ルートを登ったが、十月九日にエドガルド・ホセ・ポルセジャナが雪崩のため死亡。六五六〇を最高到達点として断念した。 
1979年秋  ウラディーミル・クルピカら十人のチェコスロヴァキア(当時)隊がラルキャ氷河から北峰を目ざし、四二〇〇のBCのあと五つのキャンプを設けて北峰II(七〇五〇)に登った。頂上に立ったのは十月十六日にヤン・チェルヴィンカとオタカルスロヴナル、十八日にミロスラフノヴォトニーと隊長の計四人。 
1980年春  韓国から四度目の挑戦。今度はリ・インジュンら七人の東國大隊で、四月二十一日に早くもC5(七五〇〇)を建設。二回の攻撃が失敗に終わったあと四月二十八日にソ・ドンワンとシェルパのアンパサン、アンザワが頂上に立って韓国積年の願いを叶えた。 
1980年春  ヤヌシュ・フェレンスキ隊長ら九人のポーランド隊は、初めてプンゲン氷河から南稜を目ざした。陸送した隊荷の遅れから四月上旬にカトマンドゥを出発、氷河上に二つのキャンプを進めて六五五〇まで達したが、頻発する雪崩に阻まれ、五月十七日に断念した。 
1980年秋  ハンス・シェルら七人のオーストリア隊がスキーを使って北東面通常ルートに向かった。雪のコンディションが悪く、カール・フープが六八〇〇地点まで使用したにとどまったが、以後も登山を進め、十月十四日に隊長ら三人とシェルパ四人がプラトーのエッジ手前七四〇〇地点で断念した。 
1980年秋  ディナ・シュテルボワら女性八人に男性四人が加わったチェコスロヴァキア(当時)隊は南稜をあきらめてマナスル氷河に変更。北東面通常ルートに四つのキャンプを進めて七二〇〇に達して断念したが、女性隊員ヤナ・クカロワがノース・コルから北峰を往復した。
 1981年春    オーストリアのギュンター・ハウザーが経営する旅行社ハウザー・イクスクルジオーネンが組織した公募登山隊が北東面通常ルートを登った。西ドイツ、スイスも含めた三国から集まったメンバーは二十八人で第一グループ(十三人)をハンス・フォン・ケーネル、第二グループ(十五人)をベルント・シュレッケンバッハが率いていた。ちなみに公募メンバーの個人負担金は九五〇〇ドイツマルク、シェルパは十三人であった。BCから一ヵ月でC5(七四五〇)までキャンプを展開。五月七日に三人、九日に五人、十九日に七人の計五人(うちシェルパ二人)を頂上に送った。九日に登ったアンデルル・ローファラーは六十二歳で八千峰の最高齢登頂者となった。また、十九日のペーター・ヴェルゲッターとゼップ・ミリンガーは頂上からC1までスキー滑降に成功した。 
1981年秋  加藤保男、尾崎隆、富田雅昭は、サーダー以下四人のシェルパと北東面通常ルートをすばやく登った。十月一日にBCを置き、十日後に早くも七一五〇にC3を建設。十月十二日に尾崎が登頂し、二日後に加藤、富田も頂上に立った。日本人が無酸素でマナスルに登ったのはこれが初めて。 
1981年秋  ピエール・ベジャンら四人のフランス隊がドメン・コーラから西壁を目ざした。中央部はさすがに手が出ず、右寄りの岩稜に取り付き、上部で七二年オーストリア・ルート(南西壁)に合流してプラトーに進出するライン。四八〇〇のABCから五八〇〇にC1、六七〇〇にC2を出しただけで上部ではアルパイン・スタイルを採用。十月六日、七四〇〇でビバークしたベジャンとベルナール・ミュレルが翌日頂上に達した。ジェラール・ブルタンも八日に単独攻撃を敢行したが、プラトーに出たところで夜となり、二人の残したビバーク・テントが見つからなかったため深夜C2にもどった。 
1982年春   エンリク・フォントら六人のスペイン隊が北東面通常ルートで雪崩遭難した。五月十日、隊長とペレ・アイメリチがC5(七四〇〇)から頂上を攻撃、七六〇〇から引き返してC5に一泊したが、その夜のうちに雪崩のためキャンプごと流され二人とも行方不明となった。 
1982年秋  ルイ・オードゥベールら十四人のフランス = イタリア隊が北東面通常ルートを登り、十月十日に隊長とシェルパのナワン・テンジンが登頂した。 
1982年秋  同じころ東稜に挑んだフランス隊(ジャン = ポール・バルマら五人)は六二〇〇で断念。通常ルートに入る許可をオードゥベールからもらったが、連絡官がカトマンドゥにその旨を伝えなかったため正式許可が下りず、そのまま断念した。 
1982年冬  山田昇ら十人の日本ヒマラヤ協会隊が十一月三十日にBCを建設、北東面通常ルートから冬季初登頂を目ざした。七四〇〇地点までのルート工作を終え、十二月十七日にC3(七一五〇)を建設。翌日、佐久間隆、角田不二、青田浩が頂上を目ざしたが、プラトーの七六五〇地点から強風のため引き返す途中、佐久間が滑落、約三〇〇落ちて死亡した。 
1983年春  ヴィンコ・ムロヴェッツらのユーゴスラヴィア(当時)隊。ツラギ氷河側から南稜を目ざしたが、四月二十五日に四五〇〇地点で雪崩に遭い、イェルネイ・ザプロトニク他一人が死亡。七一〇〇を最高到達点として断念した。 
1983年春  ダグ・キーランら十二人の英軍隊はノース・コルから北峰に登った。C3(六七七〇)までキャンプを進め、五月四日にパット・パースンズ、チャールズ・ハタースリー、テリー・ムーア、ダグ・ボースウィックの四人が登頂した。  
1983年秋  ギュンター・ヘルターら九人の西ドイツ隊。同じくツラギ氷河から南稜をねらったが、七四〇〇のC4から十月十八日に頂上攻撃をかけたときにはピトンとロープが不足し七五〇〇で断念。南西壁の七二年オーストリア・ルートに切り替え、C2からアルパイン・スタイルで登攀。ヘルター以下七人とシェルパ二人が攻撃に参加し、六六〇〇、七四〇〇とビヴァーク後、十月二十二日に隊長とヘルベルト・シュトライベル、ヘルマン・タウバー(イタリア)、フーベルト・ヴェールがシェルパのアン・ドルジェ、ニマ・リタとともに頂上に立った。同ルートの第二登である。
1983年秋  韓国の許ホー・永ヤン浩ホが北東面通常ルートから単独登頂した。ルート下部の工作とキャンプ建設に二人のシェルパの手を借りたが、頂上攻撃は単独。十月八日の攻撃は七七〇〇から引き返したが、十九日にあらためてBCを出発、C1、C2、C3と泊まりを重ねて二十二日頂上に立った。下山途中、南西壁を登ってきた西ドイツ隊と頂上直下ですれちがった。 
1983年秋  ヴィルフリート・シュトゥダーら五人のオーストリア隊は東稜を攻めたが、十月七日に隊長とマンフレート・ケスラーが七四〇〇に達したところで断念した。 
1983年冬  レッフ・コルニシェフスキら十一人のポーランド隊が冬季初登頂に成功した。南西壁オーストリア・ルートをたどるが、十二月十二日にC1から下降中のスタニスワフ・ヤヴォルスキが落石による固定ロープ切断で転落死。この事故で予定が遅れ、C3(七一〇〇)を建てたところで本格的な冬となり、登山は年を越した。八四年一月十一日、マチェイ・ベルベカとリシャルド・ガエフスキがプラトー上に達して七七〇〇にC4、翌日二人とも頂上に立った。このルートの通算第三登にあたる。またポーランドにとっては、一九八〇年二月のエヴェレスト以来二つ目の八千峰冬季初登頂であった。 
1983年冬  北東面通常ルートからはアラン・バージェスら四人のカナダ隊が、こちらも冬季初登頂を目ざしていた。十一月中にナイケ・コルまで上がってC1を設け、十二月一日を待って登山開始。十日六五五〇にC2のあと、アランとエイドリアンのバージェス兄弟が七一〇〇に達したが、強風のため追い返された。 
1984年春  アレシュ・クナヴェルら四人のユーゴスラヴィア (当時)隊が二手に分かれて南稜と南西稜を試みるべくツラギ氷河に入ったが、結局後者一本に絞った。六五五〇のC3まで三つのキャンプを設け、五月二日にヴィクトル・グロシェリとスティペ・ボジッチが頂上を攻撃。途中で二回ビバークして四日に登頂した。BC建設後十八日目の登頂であった。 
1984年春  西ドイツ(当時)のギュンター・シュトルムとスイスのハンス・アイテルがそれぞれ六人ずつの合同隊を組み北東面通常ルートを登った。BCから一ヵ月で登頂態勢をととのえ、四月三十日にスイスのエアハルト・ロレタン、マルセル・リュエディが登頂。五月七日に西ドイツのフリッツ・ツィントル、ミヒャエル・ダッハーが続き、十一日にはノルベルト・ヨース(ス)と西ドイツのシュトルム隊長、ヴォルフガング・シャッフェルト、ルドルフ・シャイダーがシェルパのアン・チャパル、ウォンギェルとともに頂上に立った。 
1984年秋  ヤヌシュ・クリスら八人のポーランド隊(スイス人一人も含む)が南稜を初登攀した。プンゲン氷河からピーク29とのコル(プンゲン・ラ、六七五〇)に向けてルート工作し、取付から二週間をかけてコルに到達。クシストフ・ヴィエリツキとルドヴィク・ヴィルチニスキが七四〇〇まで固定ロープを張ってから四人が頂上に向かい、七三五〇でビバーク。ヴィエリツキとアレクサンデル・ルヴォフが十月二十日頂上に立った。 
1984年秋  チェザーレ・チェザ・ビアンキら六人のイタリア隊は北東稜通常ルートをたどったが、七五〇〇で断念した。 
1984年秋  クラウス・ヴィンガーら七人の西ドイツ(当時) = オーストリア隊が北面からマナスル北峰を目ざしたが、五九〇〇地点で断念した。 
1985年春  ヴィルフリート・シュトゥダーら八人のオーストリア隊。静岡岳連隊のキャンセルにより南西壁の許可を東稜に変更した。上部はピナクルへ直登せず、核心部岩稜の先から右(北)方へトラバースして六五〇〇にC3。シュトゥダーとルディ・マイヤーホーファー、シェルパのアン・カミは四月三十日午前中にC3に入り、仮眠をとってからその夜二十二時に頂上に向け出発。七〇〇〇地点で夜が明けるまで仮眠し、プラトーから下りてくる側稜を登って七六〇〇地点で通常ルートに合流、十五時頂上に立った。第二次攻撃は五月四日に行われた。クリスチャン・ガプル、アントン・シュランツ、トーマス・ユーエンの三人は東稜を忠実にたどり、ピナクルに向けて直登しようとしたが、七三〇〇で敗退。下降にかかってすぐユーエンが雪崩に流され、七〇の氷壁を転落。行方不明となった。 
1985年秋  対馬巌ら九人の青森県隊も同じ東稜を試みた。核心部岩稜の先六三〇〇にC3を設けたが、十月八日からの悪天候に阻まれて断念した。 
1985年秋  降旗義道ら七人のイエティ同人隊。北東面通常ルートのスキー滑降を目ざし、十月二十三日にC3(七二〇〇)に達したが、二日後六四〇〇にあったC2が雪崩に襲われてニマ・ノルブが死亡、装備の大半を失って断念した。 
1985年秋  フェリペ・ウリアルテら七人のスペイン隊も同じルートに入ったが、降雪のため六三〇〇で断念した。
1985年秋  フリッツ・ツィントルらの西ドイツ(当時) = オーストリア = スイス隊が北稜から北峰に向かったが、大雪のため四九五〇までしか行けなかった。 
1985年冬  山田昇、斎藤安平はアルパイン・スタイルで北東面通常ルートを登り、冬季第二登に成功した。十二月五日にBCを設け、五三五〇、六一〇〇、六八五〇とビバークして九日に頂上を攻撃したが、強風に阻まれて七二〇〇で敗退。十一日に再びBCを発し、六一〇〇で降雪のため二泊、七〇五〇にもう一泊後十四日頂上に達した。下部は深い雪に苦労したが、プラトー上はアイゼンのよく効く堅雪だったという。なお二人は、五六年の初登時に残された記念のメモの入ったピース缶を持ち帰った。 
1986年春  ミヒャエル・ダッハーら十六人の西ドイツ(当時) = オーストリア隊。北東面通常ルートを目ざすが、五月三日に四人がC4(七四〇〇)へ向かう途中ヴィルヘルム・クライバー(独)が単身引き返したまま行方不明。C4を建てた他の三人も翌日天候悪化で下降中に、ディーター・オーベルビヒラー(オ)が七二〇〇で滑落死。遺体を運び下ろそうとした二人とも負傷した。あとの六人はその後も続行したが、五月十一日に登頂を断念した。 
1986年秋  カルロス・エドワルド・ゴメスら十人のコロンビア隊(ポーランド人を含む)。北東面通常ルートに十月三十一日C4(七二五〇)を設けたが、その夜から天候が悪化したため断念した。 
1986年秋  イェジ・ククチカらポーランド四人、メキシコ一人の合同隊。東稜をたどるが降雪のため七七五〇でいったん断念。その後北東面下部から東稜上部へと直登するルートに切り替えてククチカとアルトゥール・ハイゼル、メキシコのカルロス・カルソリオがアルパイン・スタイルで攻撃。十一月五日に開始し、五五〇〇、六三〇〇、七三〇〇、七六〇〇とビバークしてピナクルのプンゲン氷河側を巻き、プラトーを経て十日頂上に立った。カルソリオは凍傷を負ったため最後のビバーク地に残り、ククチカとハイゼルが登頂した。 
1986年秋  ヨヴァン・ポポフスキら十三人のユーゴスラヴィア(当時)隊はプンゲン氷河から南東壁を試みたが、七四〇〇に達したところで断念した。 
1987年春  ヴォイチェフ・シマンスキらポーランド三人、チェコスロヴァキア(当時)二人、西ドイツ(当時)一人の混成隊が南東壁を目ざした。通常ルートを七一〇〇まで往復して高所順応後プンゲン氷河に移り、クシストフ・パンキェヴィッチとルドヴィク・ヴィルチニスキ(ポ)がアルパイン・スタイルで攻撃。六二〇〇、六八〇〇とビバークしたが、その上部にある三五〇のロックバンドが乗り切れず断念した。 
1987年春  スペインのエンリク・バサスをフランセスク・バルセロナがシェルパ二人を伴って北東面通常ルートに向かったが、四月八日のC2(五六〇〇)到達後数日にして雪崩のためキャンプを失い、断念した。 
1987年秋  アルトゥール・ハイドら二十人のオーストリア隊が北東面通常ルートを登った。頂上に立ったのは十月七日で、登頂者はヴァルター・ハウザー、ヨハン・エチマイヤー、シェルパのラクパ・ソナム。 
1987年秋  松島静吾(総隊長)、菊地晶三(隊長)ら十五人の青森県岳連隊。八五年に続く東稜挑戦だが、ピナクル直登はあきらめてオーストリア隊のトラバース・ルートに変更。十月十七日に六三〇〇に達したが、降雪のためテントを失い二十五日に再建。しかし、二十八日に最高到達点からBCに下りた工藤一義が脳血管障害で急死し、断念した。 
1987年秋  西ドイツ隊とデンマーク隊がマナスル北峰の許可を持って入山したが、実際は両者ともトレッキング隊で、BC以上での活動は行わずに終わった。 
1988年春  冬にマカルーを試みて七五〇〇まで達したポーランドのアンジェイ・マフニクとアメリカのアンドリュー・エヴァンズがその足でマナスルを訪れ、北東面通常ルートをアルパイン・スタイルで試みた。三月八−九日、十二日と二回にわたる攻撃を行ったが、ひどい降雪のため五四〇〇で断念した。 
1988年春  ロベルト・ペら六人のイタリア隊。北東面通常ルートを登り、五月一日に七〇五〇に達して引き返した。 
1988年春  トニー・シュピーリヒら七人のスイス隊。東稜から北東面に抜けるオーストリア・ルートをたどり、六八〇〇のC2まで建設。四月三十日、ベーダ・フスター、リヒャルト・オット、ウルズラ・フーバーの三人は長駆頂上を攻撃し、七五〇〇でビバーク後に登頂。第二次攻撃は五月十日に隊長とウエリ・シュターヘル、ピエール = アンドレ・レヴェによって行われたが、天候悪化のため七六〇〇で断念した。 
1988年秋  アントニオ・ロペスら十二人のスペイン隊。北東面通常ルートを登り、十月二十五日にフアン・アグーリョとシェルパのアン・ラクパが頂上に立った。 
1988年秋  弘前大の堀弘、黒滝淳二がシェルパ二人を伴っただけで同ルートに向かった。十月二十三日に堀とモティ・ラル・グルンが七五〇〇まで登ったところで断念した。 
1989年春  ブノワ・シャムーら八人のフランス国際隊。八千峰全座登頂を目ざすイタリアのプロジェクト「クォータ8000」がフランスに引き継がれ「エスプリ・デキプ」と名を変えたもので、メンバーにはイタリア、チェコスロヴァキア(当時)、英国人も含まれていた。 ツラギ氷河から南稜を目ざしていたが、雪崩の危険が大きいと見て南西壁オーストリア・ルートに変更。五月九日にシャムーとピエール・ロワイエル(仏)、十日にソロ・ドロテイ(伊)とヨゼフ・ラコンチャイ(チ)、十一日にフレドリック・ヴァレとイヴ・ドトリ(仏)、十二日にもアラン・ヒンクス(英)とマウロ・ロッシ(伊)がシェルパのティルタ・タマンとともに登頂した。 
1989年春  キース・ブラウンら米国人とスペイン四人の合同隊は北東面通常ルートに向かった。五月七日、七二八〇のC5を目ざしていた三人のうちスペインのサンチアゴ・スアレスが七二五〇付近で滑落、のち七〇〇〇地点で遺体となって発見された。 
1989年春  オスカル・ピアッツァら六人のイタリア隊は東稜を目ざし、五月一日に七三〇〇に達したが断念した。 
1989年秋  マーク・ディクスンら三人の英国隊が南西壁に向かった。下部岩壁「ロニヨン」にルート工作を施し、五二〇〇のABCから一気に頂上をねらったが、六五〇〇でビバークしたディクスンとエイドリアン・パースンが十月二十七日七〇〇〇に達しただけで終わった。 
1989年秋  エイドリアン・バージェスら十三人の米国隊は北東面通常ルートを目ざしたが、十月二十五日に七〇六〇に達したところで断念した。なお十月二十日に軽い地震があり、セラックの崩壊でデポ地が被害を受けたが、人員に被害はなかった。 
1989年秋  ホルスト・フランクハウザーらのオーストリア = スイス = 西ドイツ(当時)隊も同ルートの七三〇〇地点で十月十日に断念した。 
1989年秋  福島正明ら四人のヒマラヤ同人隊も同ルートを登ったが、十月十七日七四〇〇で断念した。 
1989年秋  カルレス・ヘルら三人のスペイン隊も同ルートの六〇〇〇で敗退した。 
1989年秋  村口徳行ら二人のチームが北峰の許可をとってナイケ・コルに達し、チベットからインドへ向かうツルの渡りをビデオに収録した。 
1990年春  ドナルド・グッドマンら九人の米国隊が北東面通常ルートで雪崩遭難した。四九九〇にC1を設けたが、三月二十七日、降雪直後に下降を始めた隊員三人とシェルパ二人が四七二〇付近で雪崩に埋められ、ナンシー・ジャクスン、チャーリー・シャーツ、シェルパのウォンチュクの三人が死亡した。 
1990年春  ファウスト・デ・ステファーニら六人のイタリア隊も同ルートに入り、四月二十六日にデステファーニが単独登頂した。 
1990年春  ドミニク・ノイエンシュヴァンダーら六人のスイス = フランス隊は同ルートのスキー滑降を目ざしたが、四月二十九日六〇〇〇で断念した。 
1990年秋  フアン・フェルナンド・アスコーニャら十二人のスペイン隊は北東面通常ルートの六四〇〇に達したが、十月一日に断念した。 
1990年秋  カズベク・ワリエフら八人のソ連カザフ隊がプンゲン氷河から南東壁を目ざした。十月五日、核心部のロックバンド下にキャンプ(七〇〇〇)を置いたが、翌日五ピッチ登ったところで三人が転落、ムラト・ガリエフ、グリゴリー・ルニャコフ、ジヌル・ハリトフが死亡した。 
1990年冬  ロン・ラットランドら六人の英国隊が北東面通常ルートを目ざしたが、六〇〇〇で十二月十日、早々と断念した。 
1990年冬  フランスのエリック・モニエが南西壁に単独で挑戦。九一年一月六日、プラトーの七九五〇に迫ったが、あまりの寒気にそれ以上進めなかった。 
1991年春  フランコ・デラトーレら五人のスイス隊。北東面通常ルートを六四〇〇まで登ったが、四月六日に達したこの地点が最高到達点となった。 
1991年春  ドウスン・ステルフォックス、フランク・ニュージャントが共同で率いるアイルランド = 英国隊十五人も同ルートに入ったが、深い雪のためルートが延びず、C4手前の六一〇〇で四月二十七日、断念した。 
1991年春  ハンス・カマーランダーら十二人のイタリア = ドイツ隊も通常ルートを登った。七〇〇〇にC2を設けたカマーランダーとフリードル・ムッチュレヒナー、カール・グロースルバッチャーは五月十日に頂上を目ざすが、二人が途中で脱落、カマーランダーのみが七五〇〇まで達したところで引き返した。C2へ下る途中、グロースルバッチャーが首の骨を折って死んでいるのを発見。ムッチュレヒナーと合流してC1を目ざしたが、今度はムッチュレヒナーが雷に打たれて即死してしまった。 
1991年春   ウラディーミル・シュミチンら九人のウクライナ隊は南東壁を目ざして入山。三つのキャンプを進めて七二〇〇に達したが、ルートが難しいので四月二十四日に放棄、南稜に切り替えた。アレクセイ・マカロフ、ヴィクトル・パストゥフ、イゴール・スヴェルグンの三人が五月一日アルパイン・スタイルで攻撃を開始し、三日にコルに到達。さらに二回のビバークで六日に登頂し、北東面通常ルートを途中二泊で下降した。 
1991年秋  アントニ・リャセラら七人のスペイン隊が北東面通常ルートを試み、十月六日七九〇〇に達したところで断念した。 
1991年秋  オレステ・フォルノら九人のイタリア隊も同ルートに向かい、九月二十八日と十月八日に七一〇〇に達したが、失敗に終わった。 
1991年秋  ブルーノ・イェルクら十八人のスイス隊も同ルートをたどり、十月二十五日にマウロ・フェラーリとホルスト・ブランチェンが頂上に立った。 
1991年秋  オースティン・ワイスら七人のアメリカ隊は南西壁を試み、十月二十二日に七八〇〇で断念した。 
1992年春  毎年複数の登山隊が八千峰に殺到するなかにあって、このシーズンには一隊もマナスルを訪れなかった。 
1992年秋  パク・テキュら十人の韓国チョスム大隊。北東面通常ルートをたどり、九月二十五日にリ・ヤンチョルとシェルパのナワン・プルバが登頂した。頂上に立ったのが一八時三〇分と遅かったため最終キャンプ(C3)まで帰れず、七九〇〇でビバークした二人は凍傷を受け、BCからヘリコプターで運ばれた。  
1992年秋  クシストフ・ヴィエリツキらポーランド人五、イタリア人四、ブルガリア人二、ベルギー人一の計十二人も同じルートをたどった。九月二十八日、ヴィエリツキとマルコ・ビアンキ、クリスチャン・クントナー(伊)が六二〇〇のC2から長駆頂上を目ざして登頂した。彼らは三日前に登った韓国隊の足跡が最高点の手前二、三〇分、距離にして一五〇はなれた前衛峰で終わっているのを発見、写真に撮った。他のメンバーはもう一つキャンプを設けるべく行動した。十月二日、シルヴィア・ドモフスカ(ポ)とスヴェン・ヴェルメイレン(ベ)がC3に向かったが、予定地の七二〇〇付近で暗闇の中ドモフスカが滑落死。翌朝C2近くまで帰ってきたヴェルメイレンも滑落し、キャンプに収容されたものの三時間後に亡くなった。
1992年秋  マイクル・ガルブレイスらのカナダ隊も同ルートをたどり、十月一日に八〇五〇に達したが断念した。同日ジェフ・パウターとピーター・タッカーがノース・コルから北峰に登頂。 
1992年秋  クロード・レイら九人のフランス隊は北稜から北峰~を目ざし、二つのキャンプを進めたが五五〇〇で断念した。なおトレッキング班のリーダー、ベルナール・クロワゼは十月十三日にチョロン付近で落石に当たって死亡した。 
1993年春  アルトゥール・ハイドら八人のオーストリア隊が北東面通常ルートから登頂した。頂上に立ったのは五月二日でメンバーはヨゼフ・ブルンナー、ゲルハルト・フロスマン、ヨゼフ・ヒンディング、ミヒャエル・ロイプレヒトの四人。 
1993年秋  パオロ・パリーノら十一人のイタリア隊が南西壁オーストリア・ルートに向かい、十月十三日にシルヴィオ・モンディネリが頂上に立った。 

1993年秋  ゼップ・インヘーガーら十人のオーストリア隊は北東面通常ルートに入り、十月十五日インヘーガーが登頂した。 1993年秋 ワレリー・カルペンコら九人のロシア隊も同ルートをたどり、十月十九日にウラディーミル・ロパトニコフがまず登頂。二十一日にもイゴール・フミリヤルとエカテリーナ・イワノワが頂上に立ったが、下山中にフミリヤルが転落死した。このほか二十三日に六二〇〇地点のキャンプが雪崩に襲われ、セルゲイ・ヤドリシニコフが死亡している。 
1993年秋  ハインツ・シャウアーら六人のドイツ = オーストリア隊は十月六日、同ルートの七三〇〇で断念した。 
1993年秋  ミシェル・リシャールら五人のフランス隊がノース・コルから北峰を目ざしたが、十月二十三日六四〇〇に達しただけで終わった。 
1995年春  ホルガー・クロースら十一人のドイツ隊。北東面通常ルートを六一〇〇以降アルパイン・スタイルで登るが、一日に標高三〇〇しかかせげず、プラトー上七七〇〇地点までビバークはじつに五泊に及んだ。五月七日、イェルク・バルトック、トーマス・シュテフェン、ミヒャエル・ツンクの三人が頂上に立った。しかし、下降中最後尾を歩いていたツンクが転落死。登頂前日には途中から引き返したイェルク・シュタルケも転落死した。 
1995年冬 1995年秋 金沢健ら八人のカトマンズクラブ隊。北東面通常ルートに三つのキャンプを設け、十月十三日に谷口守、木本哲、堀弘が無酸素で攻撃したが、板状雪崩の危険から七四〇〇で断念である。金沢隊長ら四人とシェルパ三人の二次隊は酸素を使って十六日に攻撃したが、これも同じ地帯で敗退。木本、堀による第三次隊も翌日降雪のためC2で断念した。 
1995年冬 1995年冬 カズベク・ワリエフら十二人のカザフスタン隊は冬の北東面通常ルートに挑み、十二月八日に八人が登頂。メンバーはユーリ・モイセーエフ、アレクサンデル・バイマハノフ、シャフハト・ガタウリン、ディミトリ・ソボレフ、オレグ・マリコフ、ウラディーミル・スヴィガ、ディミトリ・ムラエフ。冬季通算第三登である。
1996年春  サムドルクら九人の中国・チベット登山協会隊。八千全座登頂計画の一環としてマナスルに挑み、北東面通常ルートから登頂に成功した。まず五月三日にツェリン・ドルジェ、レン・ナ、アケブ、ペンバ・タシ、翌四日にもワンギャル、ギャルブ、ダチュン、ローツェが頂上に立った。 
1996年春  メキシコのカルロス・カルソリオが弟のアルフレッドとともに通常ルートを登り、五月十二日に二人とも登頂。カルロスはこれで八千峰全座登頂を完成した。メスナー、ククチカ、ロレタンに次ぐ四人目の快挙である。 
1996年春  エルンスト・シュヴァルツェンランダーのドイツ = スイス隊は五月十日、同ルートの六七〇〇で登頂を断念した。 
1996年春  四月二十八日にプモリ、五月十日にローツェを登ったシャンタル・モデュイは、シェルパのアン・ツェリンとともにヘリでマナスルBCに飛び、五月二十四日に単独登頂した。彼女にとって五つめの八千峰登頂成功である。

Copyright 1997 The Japanese Alpine Club