当委員会で行なった談話会の内容は、本年2月18日が「東席アジアの薬草」(山口一孝氏)、3月25日が 「登山の行動科学・発想」(千葉重美氏)、「登山の行動科学・遭難のシミュレーション」(小山内正夫氏)、4月16日が「山の航空写真あれこれ」(大森弘一郎氏)で、それぞれルームにおいて開かれた。講演要旨は次のとおり。
● 東南アジアの薬草
老後を想い家族と共にネオ シルヴァ ライフをスタートする決意がつきその準備にとりかかったら、数十年忘れていた東南アジアの薬草の抄録の資料と、Kirtikar & Basu:Indian Medicinal Plants(Allahabad,1918)黒田辰一郎=仏印薬用植物(陸軍軍医団,1943)のパンチカード計2020枚に再開した。
私が生薬学のプロの時はこれらの伝承的な薬草から有効成分を取り出し分析して化学構造を決定し、さらに同様またはそれ以上の薬効と、それ以下の副作用を持つ新化合物を合成して医療に供するのが目的であった。ところが同じ資料を久し扱りに抄録し直して気付いたことは薬効の対象に、レプラ、肺病、コレラ、赤痢、腸炎、蛇その他動物の咬傷、寄生虫病、皮膚病、ガン腫瘍、性病、白帯下、通経、だ胎、強壮、強情、催淫、リューマチ、中風、麻疹、牌酔、鎮静、神経障害、健胃、体液調整変質、利胆牌肝、利尿などが実に多いことで、改めて熱帯の自然と環境に活きる庶民の知恵と体臭と悲願をひしひしと感じとること、かできた。彼等こそ生薬学の先生である。
しかしもしもわれわれがジャングルでコブラに咬まれた時は、伝承の薬草に頼るよりもその血清を求めることが急務であることを書き副え詑足とする。
(山口一孝)
● 登山の行動科学・発想
今日のように、安寧と豊熟の世の中にあって登山も、自我の発露にたった自己実現型の登山になってきている。
斯かる次代に立って考えてみれば、過日の登山は、人間の自然に対しその苦難の限りを尽くしての初登頂と、その陰に潜む遭難の歴史であったとみても過言ではない。しかし、これは、登山の宿命ととられるかも知れないが、本来、登山の本質は、山を愛するものが目的とする山の頂にたち下山したことによって完結する人間のみがとる行為であって、その頂に対しての価値評価や、その行為の選択手段は、各人の趣味嗜好による。
*ある老練な登山家は「登山には人間的な価値があり、社会を健全化させる」との言を遺しているが、登山の社会生産性を論ずるまでに至っていない。
心の偏執の時代にあって、人が自然と社会の狭間の中で飽くなき葛藤を求めていく、登山の中での能率行動こそが、登山は本来、社会生産性に寄与する。
かかる仮説から、登山の行動科学的な視点から、登山者の、個人、集団を問わず、人間工学的なアプローチは、ややもすると管理登山になりつつる傾向に警鐘を与えつつ、登山界に対して、新たな認識を持たせ、人間と社会の狭間にあって生産単位を確認させる。
* 西堀栄三郎氏の87年JAC年次晩餐会での発言。
(千葉重美)
● 登山の行動科学・遭難のシミュレーション
海難、航空、原子力等の大型事故はその発生防止のため徹底究明が加えられるが、山岳遭難はその特殊性もあって、裁判のケースを除いて、概略の表面的考察に流れ、叙情的追悼文で終ることが多い。この点、遭難をシミュレーション化して、その解析を通じて科学的な処方箋を体系的に得たいと考え、その手始めに登山行動全体の分析を狙って、如何なる手法が有効かを調べ上げてみた。すなわち、登山を計画準備、行動展開、緊急時意思決定、救難対応の4ブロックに試験的に分類し、夫々の特性を整理した上で、現在自然、、人文、社会の各科学面と理工学の諸分野で実用に供されている技法の中で、有望なものを選択した。
内訳は、人間工学(除心理学、医学)グラフ理論、ゲーム理論、あるいは工学、意思決定理論、システム工学、知識工学(除人工知能)、カタストロフィ理論、安全工学−となるが、この中、後半の4分野に関連する解析手法に注目した。しかし、これも今直ちに即戦力として威力を発揮することは到底無理で、今後チームを編成して実用化のための諸作業(特に入力データの整備の継続)が不可欠である。以後は機会を得て、続報としてシステム工学応用例、知識工学解析報告書等を提出し、会員諸賢の批判を仰ぐこととしたい
(小山内正夫)
● 山の航空写真あれこれ
「クウサツ」には、未知の山に登るのに役立てる°からの偵察としての「空察」と、山を歩かずに楽しむ=u空撮」がある。また飛ぶということには、山登りにも参考になる多くの教えられる≠烽フがある。
役立てる=\――高速で移動する物の中から見るため、写すことが、多くの情報を得るのに有効。地上から見えない角度からも地形を見られる。横に移動することを利用して、同じ画面を数枚撮れば(対象物までの距離の1/40〜1/200の移動量で)実体視が可能である。近寄れない場合(例・・アマダブラムから南壁)は望遠レンズと高速シャッターの組み合わせが役立つ。役立つ反面誤認があり得る。凹凸の大きさ、見えない影の部分など、思い込むと仲々なおらない。
この目的の場合は、影の出来ない時間帯を選ぶのがよい。登る前に山が良くわかることは、一面、登山の楽しみの一部をうばうこともあるし、またその反面として登れない者のウサバラシにはなる。
撮影のコツは、移動の速度につれてあわてないこと。初歩的ミスをおこしやすいので、他の乗り物の中で練習するとよい。
楽しむ=\――昔登った懐かしい山に寸暇で再会できることは楽しい。数日、数十日の山行でやっと会える美しい姿に、数時間で会うことが出来る。上手に移動すれば、広い範囲にある美しい山を次々におとずれることが出来る。又、地上から見ることの出来ない角度からの姿の中に、自分しか知らない姿を発見することがある。この時は新しい自分だけの山を創造しているような気持ちになる。
また自分で操縦してそれをさがすことが、多少なりとも代理登山の満足になる。しかし、止って、手でふれることの出来ないのが何とも残念。
教えられる=\――登山と操縦とは似た所がある。危険と常に近接していること、天候等自然変化の中を上手に動くこと、自分の位置を常に掴んでいること。判断の重要性、リーダー(機長)責任等。一方、常に移動しており、持ち時間が限られ、判断は瞬時でなければならない点は異なる。
この教育法は良く作られている。経験量の内容別数値化(時間)、力量の判断、力量に合わせた行動の指導、危険を体験させることとパニックから回復訓練等良く出来ている。それでもエラー(事故)がある。
遭難(事故)の美化は少ない。高度順化の考えはない。高空での低酸素については、判断力の低下を問題とし、この危険を良く教育し、体験させている。事故は全て失敗である。この常識から見ると「死んだが登頂成功」はあり得ない。「登頂したが死んで失敗」となるべきである
(大森弘一郎)
山518 (1988/8月号)