1978年、メスナーとハーベラーが、酸素ボンベを持たずにエベレスト登頂に成功したとき、世界の生理学者は一様に驚いたものである。それは“限界”を越える、と考えられていたからである。その後、ヒマラヤ無酸素登山がブームとなり、多くの犠牲者が出ていることも事実である。 登山事故の多くが低酸素障害に無係でないことは、登山家達自身が一番よく知っている。高所登山は、高所順応、高所劣化との戦いなのである。
二年前、私達の研究所に、最新の装備を整えた「低圧室」ができた。以来、延400余名が被験者となり、その半数以上が、高所登山を目差す登山家であった。そして彼等の多くが、低圧室で体験した低酸素障害の記憶が自己判断に役立った、と述べている。稀ならず、“高所順応不適合”とでも言うべき被験者に出くわす。体質的に低酸素に向かないようである。 「あなたは高所登山はやめなさい」と警告できるだけの経験とデータを早く積み重ねたいものである。
6千メートルまで減圧すると、5人に1人は」10分以内に意識混濁を来たす。低酸素の効果を、はっきり自覚するのは、4千メートルぐらいからである。本年7月3日、JAC科学研究委員会メンバーを主とした16名の低圧体験に、4千メートルを選んだ理由である。最大作業能力が約20%低下するので、自転車エルゴメータを踏めば、その分だけ重く感じる。低酸素効果を最も端的に感じる方法にちがいない。4千メートル体験のポイントとした理由である。私道の興味の一つに、低酸素下の平衡機能障害がある。体験希望者に高令者が多いことから、その参考データとして役立てることにした。身体のゆらぎを検出する装置に1分間立つのである。
4千メートル体験は、低圧室の広さに限りがあり、午前8名、午後8名に分かれた。平均年令43才、最高67才、女性4名を含み、多彩な職業分布のグループであった。午前グループは7名が睡眠不足。4千メートルで、顔面紅潮、酩酊感、ふらつき、等があった。午後グル−プは全体に症状が軽く、4千5百メートルまでの体験となった。睡眠不足、疲労は、著しく低酸素耐性を弱めるようである。原因はよくわからない。ふだんからスポーツを心がけるのも、低酸素に冒されたとき有利に作用する。心拍数増加や換気量増大を、より早く誘発できるからである。4千メートルでは、安静時心拍数が平均10拍程度増加していた。これは登山家の値に近い。さらに、身体動揺か、予想に反して、あまり変化しなかった。いずれも、平素から運動をやっている人が多かったためと思われる。ただ1人、午後グループで睡眠不足のあった体験者が、4千5百メートルで著しく動揺を増していた(図参照)。
高令者2名に脚ブロック型不整脈、女性1名に心室性期外収縮を認めた。後者は、スポーツマンでよく見られる、心拍数増加により消失。 そうでない場合も、前者2名の例を含め、私達の経験では、少なくとも4千5百メートルまでは変化がない。
低圧室をうまく利用すれば、高所順応に要する期間を省略ないし短縮できるかもしれない。
この可能性について、スポーツ科学者と登山家との共同実験をすすめて行きたい。生理学的裏づけには時間がかかるが、確かに有効なようであり、期待が持てる。
山448 (1982/10月号)