7月16日(土) 講師の二沢久昭氏は長野高専教授、戸隠神社神官、且つ今回の宿舎である二沢旅館の経営者と一人三役のお忙しい身で、二日間密度の濃いお世話をして下さった。二沢旅館は、最近まで正智院と呼ばれた観光寺戸隠中社の宿坊であった。
午後4時から正智院に伝わる貴重な資料の数々を見せて頂いた。古文書、画像、装具など。
中でも戸隠講の方々も中々拝見できないという、廃仏毀釈の手を免れたご神体の仏画は保存状態もよく、まだ顔料も乾いていないかと見紛うほど朱色や緑色もあざやかであった。
午後5時半より二沢氏の講演
「九頭龍信仰について」
〔講演要旨〕九頭龍とは、九頭一尾の龍で九頭龍大神と呼ばれる戸隠山の地主神であり、本地は弁財天である。奥社脇に九頭龍社がある。
学問行者が九頭龍を石屋に封じて寺を建て戸隠寺としたが、『戸隠山顕光寺流記』には「手力男命が天の岩戸を隠し置くにより戸隠と言ふ。」とも記されている。『能因歌枕』にも、「とがくし」の文字があり、すでに平安中期には中央に知られていた。また『梁塵秘抄』にも「信濃の戸隠」の言葉がある。九頭龍社を含む顕光寺は1110年には比叡山延暦寺の末寺となり、天台系の本山派に属し、戸隠三千坊といわれ隆盛を極めた。
江戸時代には幕府から千石の朱印を与えられ、全国的に見ても規模の大きな寺となったが、明治初年の神仏分離令により、頭光寺は戸隠神社に改称されるとともに、僧も世襲の社家となり、現在は神道一色で仏像、仏画もほとんど残っていない。
7月17日(日) 二班に分かれ、A班は戸隠山へ、B班は戸隠高原の修験探索に出かけた。
B班は二沢氏の案内で津村信夫詩碑、狐に乗った烏天狗不動尊の姿をした飯縄大明神の石像、守護不入の碑などを見て中社に出る。小雨の降る越水ヶ原を経て、随身門(かつての仁王門)をくぐり、大きい杉木立を進んで奥社に出た。うねった蛇を思わせる戸隠山が眼前である。A班と合流して中社に戻ると、奉納の太神楽がちょうど始まるところであった。
「天の岩戸開き」の伝説をとり入れた古い様式の神楽で、神官たちにまじって無心に舞う二人の童女の姿が印象的であった。(篠崎仁)
A班20名は戸隠奥宮、九頭龍社を経て戸隠山に向かった。霧が去来して何重もの’重直の岩壁が現われては消える様は中々の趣であった。五十間長屋で小休止後、雨となったので百間長屋までで引返すことに決め、奥社に戻ったところB班に合流できた。以後、三々五々、明るい戸隠高原を散策、森
林公園、鏡池、宝光社を回ったり、中社のお神楽を拝観したりした。 終りに信濃・岐阜支部からの参加や赤羽支部長からの地酒の差入れなどに対し感謝致します。
参加者 二沢久昭、久保孝一郎、鈴木嶋夫、岡沢祐吉、平沢利夫、丸茂キクエ、日置邦、丸山冬木、石田要久、石田尭子、篠崎仁、宮前淑子、中村あや、入谷浩右、大塚玲子、藤井茂雄、国枝武喜、水野美代子、杉山清春、野々口文子、松林のり子、松丸秀夫、中村純二、原謙一、高田真哉、高橋詞、浜口欣一、梅野淑子、石井恵美子
以上29名
(中村純二)
山526 (1989/4月号)