科学委員会主催の探索山行には永い歴史がある。その中で一貫していることは、ただ山に登るだけではなく、講師の先生をお迎えして、登った山から何かしら科学的な知識を得てくることにある。
それは高山植物の観察であったり、地質、氷河地形、植生などなど、自然科学領域多岐にわたる。時には、山岳信仰、塩の道など古道に関する社会科学的なテーマも少なくない。
本年は6月14日(土)〜15日(日)に、日本山岳会員のみならず、フォーラムに参加してくださった一般の方々も含めて39名のメンバーで浅間火山を観察する山行を行った。火山の観察のみでなく、噴火に伴う火砕流によって山麓住民のこうむった被害などの歴史にも踏み込むものであった。現在、科学委員会委員長を務める福岡孝昭氏は火山研究の専門家である。講師には困らない。
初日は車坂峠から黒斑山に登って浅間山を観察する。浅間火山群は10万年位前に黒斑山の噴火形成で始まった。その後もその周辺で火山活動は連続し現在に至っている 有史時代に入っても火山活動は続き、大きな被害を出した。黒斑山は浅間山の外輪山の位置にあり、東側が厳しい崖になっている、梅雨のさなかではあったが、幸いお天気に恵まれ、北アルプス、中央アルプス、南アルプス、八ヶ岳、御岳、富士山など名だたる山はすべて視界のうちにあった。この日、車坂峠に登るチェリーパークラインは私的なカーレースを行う団体によって占拠され、危うく車坂峠に到着しそこねるところであった。厳重な抗議が必要であると感じた。
宿泊は北軽井沢から二度上峠を越えた高崎側、市営のはまゆう山荘である。公営の宿にしては立派な作りで食事もおいしい。24時間源泉かけ流しの温泉もある。登山開始が遅れ、到着も予定よりはるかに遅れた。風呂にも入らず夕食、その後福岡講師の浅間火山に関する講話を聴いてのち入浴という変則的なスケジュールになってしまい参加者には迷惑をおかけした。
2日目は、起床一番、末広指導員によるラジオ体操から始まる。朝食もボリュームたっぷりである。バスで天明の噴火時に大きな被害をこうむった鎌原村の観音堂へ行く。ついで、鬼押出しの火山博物館を見学、最後に小浅間山に登り浅間山をじっくりと見た。
天明の大噴火時、上州方面に流れ下った火砕流は吾妻川をせき止め、その後、決壊して上州一円を荒らした。時の将軍は第10代将軍家治公から第11代将軍家斉公であったが、里に流れ下り肥沃な畑地を埋め尽くした噴出物を全部もともとの肥沃な表層の土と入れ替えたというのだからすごい。宝永の富士山大噴火(1703年)で流れ出た御殿場周辺の噴出物について幕府はなにもできなかったというか、なにもしなかったという。時の将軍は第5代将軍綱吉公であったが、将軍の違いというより、老中たち、実際の為政者によって天災の後始末は違うものだと感じさせられた。
(箕岡三穂)
トーミの頭にて(2014/6/14) |
峰の茶屋・東大地震研観測所庭の露頭 (2014/6/15)
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小浅間山山頂にて(2014/6/15)
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