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KAGAKU                          探索山行


探索山行INDEX

1982年
◆探索山行 「比良の断層地形探索」
1982年(昭和57) 10月16-17日 
地域:
コース:比良駅−比良ロッジ、−武奈ケ岳―金糞峠−堂満岳―イン谷口
宿泊:比良ロッジ
講師:藤田和夫(大阪市立大)「比良断層地形―山はどうしてできたか
協力:安部和行、中谷絹子、三上智津子、入谷浩右他
参加者35名 報告:山452(高橋 詢)

報告

比良地形探索山行

日時 10月16日(土)、17日(日)
      科学研究委員会主催・関西支部共催

 今夏来悪天の週末が多く、天候が案じられたが、絶好の山行日和りに恵まれ、関百支部の全面的なご援助の下に、比良の秋を心ゆくばかり味わうことができた。

 16日、湖西線の比良駅からリフト前までバス、リフト、ロープウエイと乗継いで夕刻比良ロッジに全員35名集合。 夕食をともにして小憩後講演会。中村科学研究委員長の挨拶の後、大阪市立大学の藤田和夫先生の講演「山はどうしてできたか」(要旨別掲)を伺う。先生がご自身で歩かれ、撮られたスカンジナビア、ヨーロッパ・アルプス、カラコルム、中国、米国並びに日本の豊富なスライドによるお話は内容的には高度のものであったが、大変わかりやすく話して下さった。最近の地球科学の目覚しい進歩は印象的で「山が何故そここあるか」という登山科学の第一歩ともいうべきものを学ぷことができた。

 9時過ぎから参加者の自己紹介をかねて懇親会を開き、関西支部の方々は荷上げして下さった豊富な飲物、肴で、夜半まで歓談の時が続いた。

 17日、昨日の強風もすっかりおさまって、無風快晴の朝を迎える。ロッヂ前で全員の記念撮影をすませ、9時すぎ出発、八雲原の湿原を経て、武奈岳に向かう。10時すぎ、標高1214メートル、比良の主峰武奈岳に到着。山頂から昨夜の講演で伺った琵琶湖側、比良山地、大津側の地形の関係をこの眼でたしかめることができた。

 武奈岳からわさび峠を経て安曇川支流、ロノ深谷の源流付近で大休止、昼食をとり、金糞峠には予定より早く、1時すぎに到着する。途中の紅葉は丁度見頃で、比良の秋を満喫できた。休日のことで家族連れや団体のハイカーも多かったが、道中ごみが少なかったのは嬉しい。

 金糞峠で解散。比良ロッヂに戻る組、堂満岳を経由して下山する組と別れ、正面谷の急斜面を下山、イン谷口からバスで比良駅に戻る。

 この山行は企画の始めから、宿泊先との交渉、事前現地調査、山行当日のお世話に至るまで、関西支部の全面的なご援助によって無事終えることができた。今西寿雄四支部長、阿部和行幹事の数々のご配慮、また科学委員会と連絡、準備、運営の任にあたって下さった安井康夫氏をはじめ関西支部の役員の方々に心から御礼を申上げます。

参加者・順不同(関西支部役員)阿部和行、久野英一郎、磯部幸則、中谷絹子、安井康夫、南川博茂、杉本秋之介、小林治俊、三上智津子
一般参加者) 菅野弘章、高田真哉、遠藤光男、麦倉啓、中村あや、安土武夫、織田沢美知子,丸茂キクエ、川北仁、富田郁夫、岩堀瑞子、篠崎仁、守田治夫、石川学、入谷浩右、大野規子、渡辺正臣、山崎健
科学研究委員会)中村純二、小西奎二、梅野淑子、斎藤桂、千葉重美、同jr、高橋
 

 (高橋
山452 (1983/2月号)


科学研究委員会講演会

 山はどうしてできたか
   −−−比良山を例として−−−

       大阪市立大学理学部地学教室
           講師 藤田和夫氏

 「山はなぜ高くなったのか」という子供が何気なく発するような質問が意外に難問なのである。
今までの地質学や地形学は、「山はどのようにしてできてきたか」ということに対しては、ある程度答を用意できたが、この難問にはまだ答えきれない。しかし「なぜ山ができたのか」という質問には、ある程度のことがいえるようになったのだが、それはこの20年ばかりの間急速な変貌をとげた地球科学のおかげである。

 比良の山頂部には八雲原の湿原の存在でもわかるように丘陵的なゆるやかな地形がひろがっていて、比良ロッヂはその片隅にある。しかしロッヂに至る琵琶湖側の山腹は、ケーブルカーもつけられない急斜面で、いたるところガリーが見られる。また西側の安曇川の谷への斜面はさらに急で、山頂から谷底が見えないくらいである。
 山は高くなるほど浸食作用がはげしくなって、やせ尾根になるはずであるから、八雲原は比良が高くなってからできた地形とは考えられない。これはかつての琵琶湖の水面に近い位置で平坦になり、その後に隆起したものにちがいないから隆起準平原と呼ばれる。武奈岳がこの平原面から突出して最高峰になっているのは、過去の準平原面の中での古い丘陵だったからで、残丘という。

 それでは比良山地はどのようにして隆起してきたのであろうか。そのメカニズムは山地両側の急斜面が暗示している。山地の根元にあたる部分を調査してみると、山麓に沿って延びる大きな断層が発見される。断層とは地球の表層の部分に発生した割れ目で、岩盤のくいちがう境界面にあたる。比良の場合は圧縮性の割れ日で、その断層面を境にして比良をつくっている花岡岩のブロツクがくさび状にしぼり出されるように上昇してきたのである。東側を比良断層、西側の安曇沿いを花折断層という。

 これらは逆断層という型の断層で、断層面が山地の内側の方向に傾斜しているので、本来なら山腹面はオーバーハングになるはずであるが、実際には山が隆起するにっれて浸食されるので、急斜面をつくりながら山麓に巨大な扇状地をつくったのである。したがって山腹斜面は変形した断層崖といえる。

 それではなぜこのような部分に圧縮作用が加わったのであろうか。この問題もこの15年ばかりの間に劇的な発展をとげたプレートテクトニクスと呼ばれる学説によってある程度説明ができるようになった。

 比良山地はほぼ南北に延びる。この方向の細長いプロ。クが隆起ナるということは、東西方向に圧縮作用が加わっているということを意味する。
そして同様な構造を東へ追っていくと、飛騨山地を経て、東北地方から遂には日本海溝に道するのである。

 プレートテクトニクス説によれば、太平洋の海底を構成する厚さ約100メートルの「板状の岩盤」が日本海溝に沿って日本列島の下にもぐり込む。 この圧縮力によって日本列島は縮みながらうねりを生じ、また破壊して断層という名の割れ目ができる。そして岩盤が割れる時に発生する波が地震だというのである。

 比良山地も、太平洋プレートの圧縮によるうねりの両端に近い高まりだということができる。このうねりがいつ頃から始まったかということも最近見当がついてきた。その成果によると、開始は約100万年前、そしてその大部分は約50万年前から急速に断層を伴う隆起が始まった。こういうと非常に古い話と思われる方もあろうが、人類史が300万年にもなってきたのであるから、人類の活動舞台の中で生れてきた、世界でも最も新しい山なのである。

 その隆起の速度は平均すると年1ミリ程度であるが、毎年じわじわと上がってきたものではなく、エネルギーをためておいて一挙に数メートル上昇するということを繰り返えしてきたとみられる。その時には大地震を伴ったにちがいない。比良の両側には歴史地震の記録も多い。これが息の長い地球の変動の実態なのである。

詳しくは藤田和夫著「日本列島砂山論」(小学館創造選書680円)をご覧いただきたい。

山452 (1983/2月号)


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