第52回「高頭祭」を主催する越後支部の誘いに、科学委員有志が中心になって首都圏、山梨の岳人16人が参加した。7月25日の式典こは、宮下秀樹前会長、堂本暁子評議員、山梨文学館の近藤信行館長、山梨支部の古屋支部長ほか3名も駆けつけられ、第二代会長高頭仁兵衛翁の威徳を偲び交流することになった。
霊峰「弥彦山」の中腹に建立された高頭翁の寿像碑前には県内十数団休の岳人が集まった。弥彦神社の燈籠神事に協賛して「第56回弥彦山たいまつ登山祭」として、山を愛する新潟県岳人ならではの意気込みである。
宮下氏は越後支部90周年祭の参列を回顧しながら、越後の銘酒やマナスル登攀の食料担当の思い出を語り、山岳会の現状課題にも言及された。
堂本氏は山河が健康維持の源であり、「山に登っていたから知事になれた」とユーモアを交え、山に対する価値観が多様化しても、先人の足跡を脈々と受け継ぐ支部伝統の強さを讃えられた。「山々を、山の会を、そして祭りの文化を大切にしてください」と結ばれた。
夕食も早々に弥彦神社に向かった。奥社からの隊列に合流して参道を下り、岳人が掲げる300本ほどの松明が杉巨木の鎮守の森を輝かせ、打ち上げ会場へ行進する。
鼓笛隊、燃え盛る松明に花火の爆音が轟きわたり、山と人がひとつになる火の神事である。村民から拍手が沸き起こり、「おやひこさん」に手を合わせる年配者もいる。
昔は雨乞いとか、豊作祈願、神恩感謝の祭りであったが、今や高頭翁が神の先導師となり県内外の岳人を従えて行列の先頭にあった。
10時には宿に戻り、越後銘酒と甲州ワインで慰労会となった。
翌朝8時から、「越後山脈の生因と中越地震発生のメカニズム」と題して、東大地震研の纐纈・大木両先生が10枚ほどのスライドで講演された。大木先生による入門編は、地震学徒となられた経緯に触れながら、ひずみが蓄積される地震大国の逃げられないテクトニクス構造を解説し、余震の恐怖に言及された。新潟、岩手、宮城などの過去の震源断層の大きさを首都圏にプロットし、その大きさに実惑を持たせ、世界地震の10パーセントは日本で起きることから、「今すぐ出来ること」など、日ごろの心構えを力説された。
纐纈教授は「地震を学ぶには山の科学を知ろう」の立場から、越後山塊がいかに摺曲地形になっているか、ひずみの集中帯として多発する中部特有の構造を実測データから解説された。新潟県の地質に特有な液状化現象が起きやすい状況での災害対策にも触れられた。
9時半から4年前の被災地山古志村を新潟大のト部先生の先導でフイールドワーク。震源13キロ、規模M6.8が及ぼした斜面崩壊、集落水没、地すべりと堰止めの現場を案内してもらった。海底に堆積された砂と泥の堆積岩の弱い地表に再び棚田の日本美甦り「父祖の地なれば、住み継げり」と帰村した人々の郷土愛を知る。
復興後にも山古志を訪ねられ、平安に戻った大地の営み、力を讃える皇后様の御歌を前に自然への祈りを新たにした。
「かの禍(まが)ゆ四年(よとせ)を経たる山古志に牛らは直(なほ)く角を合わせる」