落雷を予知して、人身事故を防ぎたいというのは、日本山岳会の松田雄一氏をはじめ、屋スポーツにたずさわるすべての人の関心事でしょう。しかし今日の気象学と雷研究の成果では次のようにしか答えられません。「雷雨予報はかなリ正確になりました。しかし今日の気象観測システムと気象統計デー夕から、落雷の地点と時刻を正確に予知することは、不可能です。平地の場合、放電活動をおこしている雷雲の直下、直径10kmいの範囲はすべて同程度の落雷の可能性があると考えなければなりません。」
これは雷と雷雨の観測結果にもとづいた間違いのない答ですが、これではあまりにもそっけない話ですから、もう少し観測や統計の結果にもとづいた落雷の確率を考えて見ましょう。
気象統計によると東京市部を中心とする関東平野では、雷雨が観測される日数は1年間に平均15日です。この程度の雷雨発生率ですと、1年間1平方粁あたりの落雷回数(落雷確率)は1という統計が出ています。栃木、群馬、長野、岐阜県などの山岳部では年間の雷雨日数はもっと多く30〜35日で関東平野部の2〜2.3倍です。それでは一年1平方粁あたりの落雷回数は2〜2.3かというと山岳地帯ではこのような単純計算が成立たなくなります。
空気は、普通ではたいへん良い絶縁体で、電気を通しません。落雷は雲の中に出来た電気が、空気の絶縁を破壊してご瞬間的に大地に流れ込む現象で、大変スケールの大きい空気の絶縁破壊現象です。破壊は物質の一番弱いところでおきますが、雲と大地の間の空気の絶縁は大地が上方につき出ているところがもっとも弱く、こわれ易くなっています、上方につき出るものは、土でも岩でも、一本杉でも、人体でも、釣竿でも、避雷針付の高層ビルでも、すべて同じように空気の絶縁をこわれやすくする作用があり、この作用は物体の電気抵抗によらず、物体がどのように大気中に突き出ているかという幾何学的形状できまります。したがって落雷確率は、年間の雷雨日に比例すると同時に、地物が大気中に突出する形状にも左右されます。山の場合は海抜何メートルか、ということではなく、周囲の地形に対してどれだけ大気中に鋭く突き出ているかによってきまり、落雷の確率は、山頂、特に尖ったピークが最も高く、尾根、鞍部、山腹、谷間という順で低くなりますが、広い盆地の真中は平地と変らないことになります。
北アルプスの事情にくわしい人達は、槍ヶ岳の山頂には毎夏一回以上の落雷があることを認めています。正確な年間落雷数を計上すれば、もっと高い数値になると推定されますが、ここでは年平均の落雷回数を1として平地の場合と比較して見ましょう。
気象統計によるとこの地域では年間の雷雨の発生する日数は35日です。この雷雨日数ですと、平地では1平方粁、年間2.3回の落雷がおきるという確率になります。槍ケ岳山頂の面積は20平方メートルで、1平方粁の5万分の1です。平地ならばこの面積への年間落雷確率は、3.3の5万分の1、すなわち10万分の4.6というたいへん小さい値です。ところが、現実の槍ケ岳山頂では、この20平方メートルに、年間1回の割合で落雷がおきていますから、年間落雷確率は1で、何と平地の値の2.2万倍になっています。これは槍ケ岳があのように大きいスケールで鋭く大空に突き出ている結果にほかなりません。
1平方粁への年間落雷確率が1である関東平野では、警察庁の調査結果によると、毎夏1回以上の落雷死亡事故がおきています。したがって、雷雲か近づいているときの、あるいは、雷雨予報が出ているときの槍ケ岳山頂の危険率はたいへん高いものであることが予想されます。
適確な落雷予知はできなくとも、この統計結果から、肩の小屋で登頂をストップする措置は是非必要と思われます。雷鳴が聞えるのは10粁程度ですから、遠雷が聞えたら、あるいは雷雨予報がでていたら、登頂を見合わせるのが、生命尊重の科学的手段です。