1,はじめに
日本の南極観測は1957年に第1次隊によって昭和基地が建設されたことに始まり、以来40年が経過しました。その間、初期には日本山岳会の先輩方が大活躍されたことはご存じの通りです。第35次1993〜95年)日本南極地域観測隊は、観測隊長兼夏隊長(渡辺興亜氏)と副隊長兼越冬隊長(筆者)とも会員でしたので、出発前に「山」で紹介していただきました。帰国後も科学委員会で、また今回と南極を紹介する機会をいただき感謝しております。
現在の観測はオーロラ、大気、氷床、地殻、海中の生物など多岐にわたりますが、その多くは地球環境に関連したものです。地球温暖化をもたらす二酸化炭素やメタンなど温室効果ガスの増加が観測されていますし、オゾンホールは日本隊の観測によって発見されました。それらも詳しく紹介したいところですが、紙数の都合で割愛させていただきます。
2、観測隊と昭和基地
観測隊は越冬隊(第35次では40人)と夏隊(同16人)からなります。11月14日に観測船で東京を出発しました。観測船は海上自衛隊が運航(第7次以降)しており、乗組員(自衛官)は約180人です。
昭和基地は4棟の建物から始まって、建物の数で10倍以上、延べ面積では20倍以上になりました。発電機の容量は10倍になり、それだけ観測も充実し、生活条件もよくなっていますが、発電用の燃料消費も10倍になっています。越冬隊員は第1次が11人ですが、第35次では40人でした。これを支えるのは観測船の輸送力です。現在の「しらせ」では観測隊の物資約1000トンを運びますが、ぎりぎりになっています。このうち約半分は燃料です。
12月の中頃に南極に着くと真夏です。夏の約1か月半は太陽が沈みません。まずは1000トンの物資の輸送です。基地のヘリポートまでは海上自衛隊のヘリコプターで、そこから先は隊員がトラックで運びます。次は建設です。古くなった建物を順に建て替えています。2,3人の専門家の指導で、あとは素人の隊員たちが作業します。夏の気温は0度C前後、晴れて風が弱ければ、力仕事では汗ばむほどです。
2月初旬、夏隊と前次の越冬隊は南極を離れ、40人だけの越冬生活が始まります。途中では食糧も何も一切の物資の補給はなく、外からの援助もなく、発電、水造り、食事、医療、通信はもとより散髪など日常生活、消防など非常時のことまですべて自分たちだけでやることになります。
だんだん暗く、寒くなっていく秋の楽しみはオーロラで、眺めていれば寒いのも忘れるほどです。冬、太陽が出ない時期が5月末から1か月半くらいあります。冬の昭和基地はマイナス30度C前後、これまでの最低気温はマイナス45.3度Cです。太陽が帰ってくる頃がいちばん寒い時期ですが、そこを過ぎるとどんどん暖かく、明るくなります。生物の活動も活発となり、野外調査も盛んに行われます。二度目の夏、迎えの船がやってきて越冬生活が終わります。オーストラリアまでは船、その後空路帰国するのが3月末です。
昭和基地の中心は新しい三階建ての管理棟で、食堂や通信室、隊長室があります。新しい建物は窓が広く明るく、快適です。2人の調理担当隊員(本職のコックさんです)が腕をふるい、1年間食事を作ります。
越冬中の食糧は合計40トン、1人1年で1トンという勘定になります。 肉や魚は冷凍で問題ありませんが、野菜は冷凍ではダメなものもあり、だんだん新鮮な野菜が不足してきます。それを補うために、小規模ですが水耕栽培でサラダ菜やネギを作ります。モヤシ、カイワレダイコン、ミニトマト、キュウリなどは暖かい建物で作ります。
電気、熱、水などの源で、昭和基地の心臓ともいえるのが発電棟です。 発電機は3台あり、交代で運転しますが、常に順調に作動するためには普段の点検と確実な整備は欠かせません。水は外の水槽に雪を入れて融して作ります。雪入れの仕事は皆でやります。風呂は以前に比べると大きくなり、またほとんど毎日入ることができました。水の使用料は日本の半分以下ですが、十分快適です。 造水、風呂や一部の建物の温水暖房の熱源には発電機の排熱が非常に効率よく利用されており、燃料の消費を抑えるのに貢献しています。
昭和基地の娯楽はビデオ、ゲーム、バー(お酒)といったところでしょうか。スポーツもソフトボール、サッカー、スキーといろいろやりました。ミッドウインター祭(冬至の祭り)では厳寒の露天風呂に入ったり、様々な催しや遊びで楽しく過ごすことができました。
基地の中は快適ですが、外は厳しい南極の自然です。「ブリザード」は台風の時に雪が降っているようなもので、「伸ばした手の先が見えない」という表現も大げさとは思えないほどです。そのような悪天候の時は安全のために外出を制限することがあります。その判断は隊長の仕事ですが、一番気を使った仕事のひとつでした。
3、南極氷床の掘削と内陸旅行
南極は大きく見れば大陸の上に鏡餅のような氷のかたまりが乗っています。これを水床といい、厚さは平均2450メートルといわれています。これは積もった雪がさらに上に積もっていく雪の重みで圧縮されて氷になったもので、深いところの氷は昔降った雪であり、当時の空気を泡などの形で取り込んでいます。この氷を掘削して分析すれば、気温や大気中の炭酸ガス濃度などの変化がわかります。このような結果から過去の地球環境の変化の仕組みを解明することが、これからの変化をより正確に予測することにっながります。
このため、昭和基地から1000キロメートル内陸、標高3800メートルの「ドームふじ」で氷を掘削する計画(ドームふじ深層掘削観測計画)が立てられました。この地点は南極全体ではいくつかある氷床の頂部のひとつで、付近の水の流動の源であり、そこの氷はそこでたまったと考えられるため、分析結果の解釈に都合よいのです。南極氷床の深層掘削はこれまでにも米国や旧ソ連が実施しましたが、このような理想的な場所での掘削は初めてです。
この計画はドームふじの初踏査から数えれば10年以上にわたるものでした。必要物資も300トン以上になります。輸送は第32次隊から始まりました。私たちの第35次隊では必要物資を輸送するとともにドームふじに基地を作り、次の隊からのドーム越冬開始に備える計画でした。このため、内陸旅行を何度も行いました。内陸の調査旅行は、私にいわせればちょうど登山に出かけるような感じで、厳しいながらも楽しいものです。とはいえ、秋と春の中継拠点旅行(昭和基地から650キロメートル)は気温マイナス60度C以下が何日も続くたいへん厳しいものでした。最後に春から夏にかけて、ドームふじまでの旅行と基地建設を行いました。何組にも分かれ、全体では4か月にわたる行動でした。
私もこの旅行に参加し、54日間かけてドームふじまで行ってきました。ドームふじ近くでマイナス67.5度Cが記録されましたが、風があまり強くなかったため、低温を楽しむ余裕がありました。
内陸旅行の主役は雪上車です。深層掘削計画に合わせてSM100S大型雪上車が開発され、大活躍しました。ほかに従来型の雪上車やそりを牽くように改造したブルドーザーも使いました。SM100Sは大型バスを少し短くしたほどの大きさで、中にはベッドがあり、炊事もできます。これで2トン積みのそりを7台牽いて走ります。平均時速は約7キロメートル、片道1000キロメートルのドームふじまでは20日間みなければなりません。内陸の雪面はサストゥルギ(シュカブラ)が発達しているところが多く、そこでスピードを出せば車もそりも荷物も傷みますので、これでちょうどよいのです。先導車にはGPSとレーダーを備え、自分の位置を知り、また目標に設置してある旗やドラム缶を見つけながら進みます。
燃料はドラム缶の軽油をそりに積んでいき、そこから雪上車のタンクに給油します。寒くなってくると南極内陸用の特別製の軽油も水飴のようになります。これを手回しのポンプで入れるのは、内陸高所ではかなりの重労働です。電動のポンプはこんな低温ではまったくといっていいほど役に立たないので持っていきません。
機械は普段の点検が大事です。夕方キャンプ地へ着くと、車の下へもぐり、ネジのゆるみをトルクレンチで確かめ締めなおしますが、マイナス50度Cではじきに指先の感覚がなくなります。厳しい使用条件では時に故障もおこります。故障すれば修理するしかありません。
そんな苦労をしながらも予定通りの輸送ができました。荷物のほとんどは基地の建設資材と燃料です。建物パネルをそりから下ろして積み上げる仕事も、低温と富士山より高い高度では楽ではありません。高さになれにくい人には、着いてから2,3日はつらかったようです。私を含めた3人は先に昭和基地へ戻りましたが、9人の隊員がドームふじに滞在して基地を建設しました。
その後、第36次、第37次とそれぞれ9人がドームふじで越冬して掘削を行い、2502メートルまでの掘削・試料採取に成功しました。詳しい分析は始まったところですが、過去35万年にわたる地球環境の変化が明らかになると期待されています。
4、おわりに
越冬を終える時は、早く帰りたいような、もっといたいような複雑な気持ちです。帰り支度で大事なのは、廃棄物の処理です。いまではほとんどの廃棄物を、可燃物を燃やした灰まで持ち帰っています。持ち帰り廃棄物の量は約40トンでした。基地では廃棄物を細かく分別しますが、皆よく理解して協力してくれたようです。南極は持ち込んだもので一年間を過ごし、しかもすべて自分たちの手でやるため、自分たちの生活と活動でどれだけのものを消費し、また排出しているか、すなわち環境への影響がよくわかるところです。電気や水を無駄遣いしないことが燃料の消費を減らすこと、さらに自分たちの安全につながることも実感できます。南極は地球環境を観測する最前線であると同時に地球環境について学ぶ教室でもありました。
隊員の顔ぶれを見ると、最近は山岳関係者の参加はそれほど多くありません。しかし何といっても厳寒の極地での生活や行動において、登山の知識・技術・経験は大きな力です。 また「ドームふじ深層掘削計画」では、これまでの調査地域の拡大や新たな観測の開始などの時と同様に、多くの山岳関係者が活躍しました。
第九次隊の極点旅行をもって探検の時代は終わり、観測の時代になったといわれていますが、南極はまだ探検的志向を発現できる貴重な場所であると思います。
この拙文が、南極観測に対し、さらに皆様のご理解とご協力をいただくことに少しでも役立てば幸いです。