科学委員会
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1998年
自然エネルギー展 開催
1998年8月12日〜22日(10月18日まで延長)
山研運営委員会 共催 延長期間は環境庁上高地ビジターセンター共催
自然エネルギー利用の意義と重要性を広く認識してもらい、今後の有効利用の方向性を示す目的で日本山岳会が主催、科学委員会、資料委員会、山研委員会が協力した
報告:山641(森武昭)
参照上高地の地震」山641(福山美知子)

報告

自然エネルギー展延長

 「いまの私たちにできること、それは自然との調和」をテーマに、上高地山岳研究所で8月2日から22日まで日本山岳会主催の自然エネルギー展が開催された。これは「地元上高地に少しでも役に立つこと」を指向している山研運営委員会からの提案に応え、地下資料室を預かる資料委員会と、展示内容に関わっている科学委員会が協力して実現の運びとなった。

 今回の展示会は、年間2百万人近い観光客が訪れる上高地で、自然エネルギー利用の意義と重要性を広く認識してもらうとともに、山小屋などでの今後の新たな有効利用の方向性を示すことに主眼をおいた。2日の開会には、地元関係者やマスコミなど20数名を招待してセレモニーが催された。

 展示は自然エネルギー利用の意義や普及状況をできるだけ分かりやすく数字を使って説明するとともに、いままでの実績を多数の写真パネルで紹介した。また今回の特徴の一つは、太陽光・風力・ミニ水力の各発電装置をバッテリーやその制御装置とともに実物を展示し、実際の電気の流れを実感してもらうことであった。

 ところで、この展示のもう一つのねらいは、JACが検討している山研でのミニ水力発電の実験計画を紹介し、その推進の必要性をアピールすることであった。この点では、環境庁の地元の所長や担当官の来訪で、その意義を理解してもらえたのは大きな成果であった。

 今後の一つの方向性としては、環境にやさしい自然エネルギーを利用して、環境保全のために早急に取り組むことが課題となっている屎尿処理を推進することである。この点は、山小屋はもちろんのこと、災害時のトイレ問題との関係もあって、関心が高かったことが注目された。

 この展示会は、8月22日で終了する予定であったが、環境庁からの要請を受けて、JACと環境庁の上高地ビジターセンターとの共催という形で、10月18日まで延期することになった。展示物と展示場所は
そのままJACが担当し、ポスターの作成などPRはビジターセンターが担当することになった。

 なお、展示内容の解説は、このエネルギー展を側面から支援してくれた管理人の木村夫妻にお願いしたが、大変わかりやすいと好評を得ている。

 マスコミが取り上げたこともあり、山小屋関係者を中心に、多方面からの問い合わせもあり、自然エネルギーに対する関心の高さを、改めて認識することができた。

 最後に、長期間にわたって快く出展にご協力下さった関係各社・団体に厚くお礼申し上げます。(森武昭)

山641-1998/10


上高地の地震

福山美知子

 山研でJAC主催の自然エネルギー展が8月2日から開かれ、3週間の予定が、環境庁の要請で秋の閉所時まで延ばされた。展示の内容や趣旨については、「山」623号に科学委員会の森理事の詳説がある。

 8月18日付朝日新聞夕刊「窓」欄には「トイレと電気」と題し、有料トイレの話とともに山小屋での自然エネルギー利用発電の実用化状況やこの展示会が紹介された。

 実は、私ども科学委員会の若輩がこの会場詰めを担当したのが、ちょうどかの群発地震のさなかであった。8月7日からはじまった今回の地震による土砂災害を、少なからず心配しながら山研入りした14日の金曜日。さっそく夕食時にゴッゴオーと来た(震度4)。遠雷のような音、そして微妙な間を置いてダンダンー・数回経験するうちに、来るぞというタイミングがわかってきた。

 報道によると12日には、上高地で震度5弱と4が各1回、1以上50回を含めて887回に達したという。

 夜が来た。キャンセルが相次ぎ、2階の畳部屋へ宿泊となる。来るわ来るわ、ゴロゴロ・ドドン。寝ている体には、昼間と違って地面からの突き上げがもろに響く。何回来たことだろう。この夜は恐怖と驚きで、その都度時計を見たものの全く覚えていない。相部屋の六人が薄暗がりの中、目を凝らして天井を見つめ、息を殺しているのがよく分かった。

 山研の建物は平成5年改築であり土台の石積みからしても壊れるとは思えない。しかし休みない揺れに、ついに私は山の行動着に着替え、どうしたら気を落ち着かせることができるか考えた。ガタン、ガタン、思えば昔の夜行三等寝台でのレールのジョイント通過の時に似ていなくもない。それから少しウトウトしたようだった。

 そう言えば、展示品の風力発電用縦型羽根は重くて1メートルあまりある。地震に備え、常時、床に座布団を敷き横にして展示してあった。
 2日目の夜、12時過ぎに一発。震度3弱か、大したことはない、一夜にしてもう慣れたのだろうか。しかし浅はかであった。2時半、ゴロゴロ……ドンドンドン。まるで雷そっくり。続く地鳴り。追いかけるように窓外の梢を叩く驟雨の音。

 まんじりともせず………3時半、「こりゃあ凄い」とみんな声を上げた(震度4)。終始揺れる。

 とどめを刺されたのは4時半である(震度4)。この時、穂高岳登山の計画が脳の中からすうーと遠のいていくのを感じた。止めよう。深夜の決断は変わらなかった。

 翌朝、梓川の水嵩はまた増していた。河童橋の下は茶色の濁流である。
東鎌尾根、焼岳の登山道は土砂崩れのため通行止め。乗鞍スカイライン閉鎖。新穂高温泉の露天風呂に落石。

 バスターミナルにはNHKをはじめ数々の中継車がアンテナを突き上げている。建設省砂防工事事務所は災害時の状況把握のため、ターミナル2階に衛星中継で画像を送る監視カメラを取りつけ、東大地震研も初めて、小梨平と大正池に地震計設置。地元の新聞は関係機関が、万一の避難誘導態勢を検討中、と報じていた。

 バスの窓から白くガスのかかる穂高連峰の稜線を振り返りながら上高地を後にする時、逃亡の気分は否めなかったが、釜トンネルを抜け、正直ほっとしたのだった。

 帰京後、涸沢岳と北穂の間、鎖場が崩れたという話を聞いた。

山641-1998/10


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