日本中部の山岳では、落葉広葉樹林帯である山地帯と、針葉樹林帯である亜高山帯との境はおおよそ標高1500mであるのに対し、月山では1200〜1400mとなっている。また亜高山帯とハイマツ帯である高山帯との境界(いわゆる森林限界)は、中部山岳では2500mであるのに対し、月山では1700mである。
ところで、亜高山帯の標徴種であるアオモリトドマツが、東北地方の背稜山脈の諸高山では、その樹林帯がよく発進しているのに、日本海側の岩木山、鳥海山、月山、朝日・飯豊の連峰には見られない。そのためにその垂直分布帯が判然としていないので、このような分布帯を偽高山帯と呼ぶこともある。このアオモリトドマツがなぜ欠除しているのか、いろいろな所説が試みられていたが、1962年月山にもアオモリトドマツが自生していることが発見された。明日登行の途中それを遠望することができるが、これでアオモリトドマツの成育には、多量の積雪や融雪期、冬季の強風などがそれをはばむものであることがほぼ解明された。
八合目の弥陀ヶ原の2,3の池塘に、オゼコウホネが発見されている。北海道から八甲田山、八幡平、栗駒山から尾瀬を結ぶ中継の地点となるが、月山と尾瀬のものだけは雌しべの柱頭盤か赤いのでオゼコウホネ、他はそれが黄色のネムロコウホネとすみ分けていることは面白い。
チョウカイフスマは、鳥海山で明治20年に発見され命名されたものであるが、北海道雌阿寒岳産のメアカンフスマと同種か異種か今なお見解が分かれているが、これが大井次三郎著「日本植物誌」などに本州では鳥海山のほかに月山の産が明記されている。これは国立科学博物館に“月山産 明治20年採”のラベルのある標本にもとづいたものであるが、おそらくはこのラベルは誤記と見てよいと考証している。
ところがこれとは別に月山に鳥海山から移植したチョウカイフスマが9合目の小屋の付近に成育繁殖しているので、将来自然生と見誤られる懸念ガないとはいえない。その意味からこれも自然破壊行為であることを大方の良識に訴えるものである。
出羽三山は宮家準氏の講演にもあったように、今は羽黒山(419m)、月山(1980m)、湯殿山(1504m)を指すが、室町時代には湯殿山を総奥の院とし、はじめは葉山、のちには鳥海山をもって三山といった時代もあった。祭神は神としては羽黒山にイザナミ、月山に月読、湯殿山に大山祇の命、仏としては羽黒山が観音、月山が阿陀弥、湯殿山が大日である。
羽黒山伏は慈恵大師伝や東鑑、北条九代記、源平盛衰記、太平記などにも見えているが、私自身11歳から43歳まで31年間、羽黒山で山伏修行をしたので、今日はその修行内容をお話ししようと思う。
羽黒山伏の修行は四季峰に分けられている。春峰は1月5日から5日間、夏峰は御戸開きから御戸閉めまでの、いわゆる夏山期間に行われる。秋峰は昔は75日間であったが、室町時代に30日間、江戸時代には13日間、明治以後は10日間になった。冬峰は100日間である。
今日は秋峰の内容を眺めてみよう。
行としては次の十界の行を行う。(カッコ内は内容)地獄(南蛮いぶし−ドクダミとトウガラシとヌカによる)、餓鬼(断食−現在は3日間となっている)、畜生(苔の行−ロも顔も洗わない)、修羅(闘そう−天狗相撲)、人間(懺悔−告白)、天界(延年の舞)、声聞(師の教クンをうける)、縁覚(独学)、菩薩(修行の実践)仏(救いの実践)。
峰中においては、人間が死んでから仏の胎内に入り、再び生まれでるまでの模様を実践するもので、葬送準備から死者との訣別、幣をささげて仏の胎内に入り、胎内修行を経て出生すなわち出峰となっている。このばあい山を仏すなわち母の胎内と感想するのである。峰中では毎夜、初夜勤行、後夜勤行という読経、礼拝の行のほか日中は山歩き、社参を行い、護身法、山伏問答、小木納め、阿伽納め、柵供養、柴灯護摩を修行するか、山歩きの場合には必ず7人以上が結集して出かけ、1人でも具合が悪いと全員が登頂を諦めて引返した。護摩にもいろいろの儀礼や方法があるが、登山の妨げになるので伐採した小柴はそのまま放置せず、山頂へ背負いあげて護摩本に使う。帰宿に際しては1本の花をたずさえて下り、これを神仏にささげる。
冬峰では日に3度冷水を浴び、数千段の石段を走って山上、山下の末社を参詣した。時には先輩山伏が後輩にいじわるをしたが、それがまた修験の厳しさや奥深さを維持するのに役立った。近年、出羽三山にも方々から車道がのび、お山が年一年と浅くなったことは淋しいが、古修験道の気持ちだけはなんとか残して行きたいものと願っている。