危険はあらゆるところに潜んでいます。とくに自然と接するアウトドアでは、管理することができないたくさんの危険があります。しかしどのようにしたら、親は危険から子どもを守ってやることができるでしょうか。スポーツ心理学、認知心理学の立場から、何をどう気をつければいいか、お話しいただきました。
- 危ないところはどこですか?
上の図を見てください。何の変哲もないアウトドアの風景ですが、気になる子どもたちがいませんか?あなたがこの子どもたちの保護者だったら、注意してやめさせたいことをしている子どもはいますか?また、様子を見守っていた方がよいと思う子どもや場所はどこでしょう?危ない場所の指摘例を挙げておきました。ここでは、いくつかのリスクを取り上げながら、アウトドアで子どもの安全を守るために、何をどう気をつければいいかを考えていきます。
- とくに注目したいのは?
最初に注目したいのは、池の右奥に一人でいる女の子です。私が保護者なら、この子から目を離しません。みんながいる場所を離れ、どこかにいこうとしているようです。差し迫った危険はありませんが、視界から離れてしまえば、この子にどんな危険が及ぶかもしれません。まして防ぐこともできません。そうならないように、この子を見守ります。
小学校の子どもたちは元気です。高学年になると、親よりもはるかに速く歩ける子もいます。元気な子どもが先に進んでしまい、だいぶ後から保護者が歩いてくる光景を時々山で見かけます。お節介かなと思いつつ、「お父さん、お母さんを待ってあげようね」と声をかけることにしています。
図版の中で、すぐにでも対応したいのが中央の小屋に立てかけてある角材です。角材が倒れてきたら子どもたちが大けがするでしょう。小学生の子どもたちは、事態の推移によって変化する危険を予測することが苦手です。こういう危険は大人が排除してあげるしかありません。また、その奥には積んである丸太に登ろうとする子どももいます。登ったら、丸太が崩れてくるかもしれません。
角材や丸太のリスクは、顕在化し始めるとコントロール(制御)できません。遠くで「危ない!」と叫んでも手遅れです。子どもにはいろいろなチャレンジをさせるため、手出しをせずに見守っておきたいと考えることもあるでしょう。でも「見守って」いいのは、事態の推移をコントロールできる時だけなのです。そうでないリスクに対しては、対処すべき時は「今でしょ!」。
- 見ていても事故は起こります
見えていなければ、子どもに何が起こっても不思議はないと書きました。見えている場所でも、危険はなくなりません。現実には、親が見ているところで相当な事故が起こっています。あるTV番組で「子どもを危険から守る」というテーマを取り上げたことがあります。プレイパークで親子が遊んでいる様子を撮って、その危ない場面を指摘する形で具体的に危険性を伝えるという方針で番組を作ることになりました。親が一緒にいる場面で危ないシーンは撮れないだろうと思っていたのですが、取材スタッフが撮った映像を見て驚愕しました。題材になりそうなシーンがたくさん映っていたのです。
一番印象的だったのが、ツーバーナーの前でけんかをする兄弟でした。弟が手遊びしていた何かをお兄ちゃんらしい子どもが取ろうとして、引っ張り合いになりました。脇にはお母さんとおぼしき人が映っていますが、料理に夢中で、子どもの動きに気づいていません。取り合いの中で激しく動き、バーナーにぶつかって、熱い鍋をひっくり返してしまうかもしれません。図にも、BBQの鉄板のそばでふざけっこをする子どもが描かれています。気づかれたでしょうか。
日常生活の子どものけがについては東京消防庁が調べています(平成17年度子供の事故防止対策検討委員会)。それによると、けがをした状況の46.1%で(親が)「子どもが見えるところにいた」と答えています。親は子どものことを見守っているようで、事故を防げていないのです。ではどうすればよいのでしょうか。
- リスクに備えるために必要な予測力は?
日常の言葉で「危険」と呼ばれる事象を、専門的には「リスク」といいます。リスクとは将来発生する可能性がある損害を意味しています。たとえば、町を歩けば交通事故に遭うリスクがあります。リスクがあるからといって、必ずしも事故に遭うわけではありません。だから、差し迫った危険を感じにくいのです。親が子どもの危険性を見逃してしまう大きな理由は、リスクの「潜在性」にあります。
潜在性のあるリスクに対処するためには、「この先どうなるのだろう?」と考えることが不可欠です。状況がどう変わったら、リスクがより高まるのだろうか。それを具体的に予測して対応しなければなりません。たとえば、土の登山道で子どもが転んでも、痛くて泣くだけで済むでしょう。もし、岩の多い登山道で転んだら、大けがをしてしまうかもしれません。だとしたら岩の多い登山道では手をつないで歩く。
子どもがけがする場面を予測することは、あまり気持ちのよいものではありません。でも、具体的に近未来の危険を予測しなければ、対応を考えることもできません。図版の中で、「何かが違っていたら、もっと危なくなるか?」と考えてみましょう。あるいは「最悪どんなことが起こるだろうか?」と考えてみましょう。日頃からそう考えることが、自分の予測力を高めることにつながります。たとえば、散らかっている焚き付けは、この周囲の子どもたちが鬼ごっこでも始めれば、もっと危なくなります。
- 自分の頭でリスクの評価を
BBQの鉄板のそばにある新聞紙はどうでしょうか?「火=危ない」と誰もが思いますが、本当でしょうか。たとえばこの新聞紙にBBQの火が燃え移っても、周囲の状況を見る限り、新聞紙が燃えて終わりでしょう。もし大人である自分が見守っていれば、周りに被害が及ぶ前に火を消し止められるでしょう。だとすれば、火のそばの新聞紙のリスクは大きくありません。このように、「あるものだから」という理由で判断してしまうことを、ステレオタイプ的判断といいます。「刃物=危ない」というのも、一種のステレオタイプ的判断です。でも、本当に危ないかどうかは、その先どうなるかによって違ってくるのです。
もちろん、要心に越したことはないという考え方もあります。では刃物なら全て危険なのでしょうか。さやに収まった刃物なら安全かもしれませんが、それでも小さい子のそばに放置しておいたら全く危険がないとは言えないでしょう。ステレオタイプ的な判断は、本来それぞれの状況で異なるリスクに対する目を鈍らせてしまう危険性があります。
現実の状況は様々で、リスクはそれによって異なります。それを踏まえて、自分自身の頭でリスクの評価をすることが重要なのです。
- 計画を立てれば安全?
一般に、計画的に進めることは、物事をスムースに進める上での大事な要件だと考えられています。では計画を立てれば安全なのか? これも一種のステレオタイプ的判断です。不確実性の高い自然の中では、ステレオタイプが必ずしも当てはまりません。2009年に発生したトムラウシ山のツアー登山遭難事故では、悪天候の中を避難小屋から出発することで、7人のツアー客と1人のガイドが犠牲になりました。ツアーのため旅程を変えることが難しいことや、その日、もう一つのツアーがその小屋に来るといったことが、ガイドの判断に潜在的なプレッシャーを与えたと考えられています。計画に従おうとすることが悲劇を招いた一因となったのです。
計画の問題点を考える時、私自身が小さかったころ、父に山登りに連れて行って時のことを思い出します。父は南極観測に従事しており、雪山の経験も豊富にありました。しかし、我が家の山登りは、「今日は天気がよいからいこうか!」という、無計画なものでした。最寄り駅から山に登り始めるのがお昼近くということもありました。時には夕暮れ迫る山の斜面のアイスバーンに難儀したこともあります。それでも、私たちが危険な目に遭わなかったのは、無計画ゆえ、つまり何がなんでも山頂にいこうという気持ちがなく、いけるところまで行ってだめなら帰ってこようという発想、その発想に従って行動することができるスキルを父が持っていたからだと思います。
- スキルと知識がなければ子どもを危険に晒します
私が安全教育のことを考えるようになったきっかけは1999年の玄倉川の水難事故でした。この事故は8月のお盆の時期に神奈川県の丹沢山塊の玄倉川の河原で発生しました。その日、集中した雨で同水系ではダムの貯水量が限界を超え、放水することになりました。増水を知らせるダム管理職員や警察の再三の勧告にもかかわらず、18人がキャンプを続けたものの、増水によりキャンプしていた場所は水没、ついには濁流に流されました。対岸に流れ着いた5名を除く13名が犠牲となりました。
当時まだ子どもが小さかった私は、悲しさと同時に無性に腹立たしくなりました。アウトドアビジネスがこんな事故をおこせば間違いなく業務上過失致死です。子どもを保護する者にはそれだけの義務があり、その義務を果たせなければ責任を問われます。子どもの幸福、安全・健康を祈らない保護者はいないでしょう。でも、その思いだけではどうにもならない。リスクに対応して子どもを守るためには、自然の中では自分で自分を守らなければならないと知ること、そしてリスクから愛する人を守るスキルが必要だということを痛切に実感した出来事でした。そんなスキルがなければ、子どもどころか保護者自身の命も危ないということを、この事故は強く感じさせてくれます。
それ以来、どうしたら子どもや子どもを保護する人たちにリスクとリスクに対処することを教えられるかを考えています。将来先生になる教育学部の学生たちに、それを伝えています。
- 子どもを守るためには?
私たちは日常、あまり危険を意識せずに暮らしています。車道の上でものすごいスピードで走る車の中でも、あまり危険だとは感じないでしょう。それは車が安全基準によって作られ、また車道を走る車は道路交通法に従って運転されているからです。法律によって安全が守られているわけです。
道路交通に限らず、食品から建築、身の回りにあるあらゆる製造物についての安全が、法や公的規制によって守られているので、私たちは安全を当然のものと思いがちです。しかし、道路を安全・快適に走ったり、歩いたりできるのはそこに道路管理者がいて、道路やその周囲を整備しているからです。一方、自然環境には本来そうした管理者はいません。また、事故が起こらないように舗装や整備がされていたら、本来の自然や山の美しさは損なわれてしまうでしょう。だから、登山道はいつ崩れるか分からない。側面から滑落するリスクも高いし、法面は整備されておらず、いつ落石があってもおかしくないのです。
まず私たち自身が自然にはリスクが不可分であることを認識し、自然の中にあるリスクを常に考えながら活動すること、それがリスクが管理されていない自然の中でのお作法です。お作法を守ってこそ自分自身、そしてそこに連れていく子どもを守れるのです。
- 自らを守れる子を育てるために
子どもが小さい時、その安全は保護者の責任です。しかし、次第に子どもは保護者の手を離れ、大きくなっていきます。小学生ともなれば、学校で多くの時間を過ごします。中学生にもなれば、親と過ごす時間はごくわずかになり、どんなところにも子どもは一人ででかけていくようになります。もちろん、その中には危険な場所もあるでしょう。そうなってから、いくら「危ないことをしてはだめ」と言ってもだめなのです。この年代の子どもの多くは親の言うことなんて聞きません(個人的な感想です)。
それまでに、子どもたちにもリスクに対するお作法を教える必要があります。危ないことには毅然として「だめ」という。自然の中であれば、きちんと子どもの手を取って、危険から遠ざける(これは、都市空間の車の多い道路や駅のホームでも当てはまります)。子どもが小さいうちは、行動として危険との距離の取り方を憶える必要があるからです。そのためには、危険から全く遠ざけるのではなく、危険があると分かる場を、コントロールできる範囲で保護者と経験する必要があります。そのような体験を提供できるのは、子どもと一対一で危険に出会うことができる保護者だけなのです。
一方で、もう少し大きくなったら、理由を含めて危ないことを教えてあげましょう。理由を聞くことで、子どもは別の状況でも自分で判断する材料を得ることができます。もちろん、そのためには保護者自身が危険とその理由を理解しなければなりません。
子どもは、こうして少しづつ自分で危険との接し方を考え、必要に応じてそれを避けられるようになります。それこそが親が子どもを危険から守ってあげるという、本当の意味であり、子どもが生涯幸福に過ごすための大切な贈り物ではないでしょうか。
村越 真 プロフィール静岡大学教授、教育学部附属学校園統括長、日本オリエンテーリング協会副会長。オリエンテーリング日本選手権15連覇の実績を踏まえ、道迷い遭難減少のための情報提供や講習を行う。著書に『子供たちには危険がいっぱい』、『山岳読図大全』(ともに山と渓谷社)、「山のリスクと向き合うために」(東京新聞)ほか多数。 |