1982年12月、冬季エベレストで加藤保男と小林利明が、1984年2月、冬季マッキンリーで植村直己が、さらに1989年2月、マッキンリー・デナリ・パス直下で、山田昇、小林幸三、三枝照雄が遭難死した。いずれも高々度と低温のほか、多分に想像を絶する冬の強風に晒されたのが主原因であったと考えられる。
特に大蔵委員は成蹊大相馬清二指導の下、自ら実験風洞に入り、平地における起立限界の風速は毎秒33メートルであることを実証。高高度における冬期の風速測定の必要性を強調していた。
科学委側では、極地研や名大水圏研に働きかけたが協力は得られず、科学委主体でマッキンリーの年間気象観測を実施しようとの結論に達した。問題は予算であったが観測用のセンサーや記録装置は白山工業が開発、低温実験は慶大理工学部が引き受けることになり、科学委員や当会会員、さらにテレビ朝日の協力も得て、漸く同年六月、第一回遠征隊を送り出すことが出来た。
大蔵隊長はデナリー・パス上部の5715メートルの岩稜上に、定点ステーションを定め、気温、湿度、風向、風速の計器を設置して一年間の無人観測を開始した。
しかし翌年、この定点ステーションに到着してみると、11月にセンサーは倒壊、冬季観測はできていなかったので装置の回収だけで終わった。
1992年と翌93年の改良型風速計等による観測も着氷や雷災のため、通年観測には至らなかった。年間観測に成功したのは1994年以降であった。1995年のデータを見ると、気圧430hp(ヘクトパスカル)、風速は毎秒60.8m、気温はマイナス50.7度である。高度5700メートルにおける起立耐風限界は周囲の気圧が低いため、毎秒50.7メートルと計算されるが、冬期高山ではいかに過酷な強風条件が支配していたかがここに実証された。
また夏の気温は平均マイナス20度、気圧は平均500ヘクトパスカルであるから、冬期は高所において、風速だけではなく、気温や気圧の面でも厳しいことが明らかとなった。
1998年3月、栗秋正寿は単独で冬期マッキンリーの登頂に成功した。頂上での気象は気圧466ヘクトパスカル、気温マイナス39度、風は南からの疾風であった。これは彼がマッキンリーの気象をよく調べた上、気圧や気温の安定した期間を選んだための素晴らしい成果であったといえる。
1996年以降は、さらに改良した新型の計器を持ち込んだにもかかわらず、静電気による異常電流や、強風による被害のため、やはり信頼のおける結果は得られなかった。
これらの状況のため、2000年の第十一回遠征をもってプロジェクトはいったん終了となったが、この間、学生部や青年部の会員の他、中高年や女性会員も本遠征に参加し、終始無事故で、登山者育成にも貢献した意義は大きい。以上の活動に対し、2000年には第三回秩父宮山岳賞が贈られた。
なお2001年からは、上記マッキンリーの定点気象観測は、アラスカ大学北極圏研究センターに引き継がれ、現在ではリアルタイムで定点の気象データが研究所に送られてきて、現地をはじめ国際的な高層気象の研究にも役立っている。
山岳第九十六年より(中村純二)